弘法大師廿一ヶ所廻 京羽二重大全 天明4年(1784)
京羽二重大全 現在
東寺大師堂 東寺 御影堂(大師堂)
同執行之内 石上神社
いなり山ノ奥 伏見稲荷大社 「大師堂[1]」廃絶
清水坂太子堂 真福寺[2]
かうだい寺前七観音 七観音院」廃寺?[3]
六原本堂ノむかい 六波羅蜜寺 「開山堂(空也堂)[4]」廃絶
松原ふや丁石ふとう 明王院不動寺
いなは薬師内大師堂 因幡薬師塔頭 医王寺(大師堂)[5]」廃寺
松原通天使の後一音寺 一音寺[6]
※ 平成2年(1990)頃、現在地へ移転?
猪熊松原上ル痰ひす 杉蛭子大神宮[7]
十一 壬生東門前東の坊 「東坊[8]」廃寺?
十二 錦小路新丁西ヘ入亀やくし 亀龍院
十三 六角堂ノ内あいぜんゐん 愛染院[9]
※ 平成9年(1997)、現在地へ移転
十四 姉小路新丁西ヘ入高松神明 高松神明神社
十五 御池通大宮西ヘ入神泉苑 神泉苑
十六 出水千本西ヘ入ル二丁め福せうじ 福勝寺
十七 七本松通一条上ル清和院 清和院
十八 北野経王堂 「北野経王堂願成就寺[10]」廃寺
※ 明治3年(1870)
十九 西陣しやうでんの内 雨宝院(西陣聖天) 大師堂
二十 しやうてん西丁岩神 岩上神社[11]
廿一 上御霊西丁京極寺八まん 京極寺鎮守 京極八幡(赤八幡)[12]」廃社
※ 大正年間(1912-1926)、京極寺のみ上京区上御霊竪町から現在地へ移転
[1]花洛名勝図会(東山之部八)」の稲荷神社の項に以下に記述があります。 「大師堂 上の殿の前の傍にあり」
[2]「太子堂」の文字だけを見ると聖徳太子像を祀る来迎院(経書堂)が考えられますが、弘法大師との関連が不明です。 真福寺の元本尊大日如来坐像が空海作と伝えられているため、こちらを有力と考えました。 なお、現在の真福寺の本尊大日如来坐像は、東日本大震災で失われた陸前高田松原の流出松で造られたものです。
[3]七観音院は2018年に法人番号が更新されていますが、門や堂宇がすべて取り壊され、現在は更地になっています。
[4]他の古文書から空也堂であることがわかり、「京都市の地名」P234の六波羅蜜寺の項に、明治4年(1871)に開山堂が壊され空也像が本堂に移された事が記されています。
都名所図会(巻之二)」では六波羅密寺の本堂正面向かいに「開山空也堂」が描かれています。
[5]拾遺都名所図会(巻之一)」に次の説明があります。 「大師堂 松原因幡堂の内西之坊にあり 密藏院醫王寺と号す 近年堂宇建立ありて 」
[6]かつて一音寺の存在した下京区天神前町343には、1991年8月にマンションが建造されており、一音寺はこれ以前に移転したと思われます。 山号が天使山で宗派が真言宗醍醐派であることから、伏見区深草谷口町の一音寺が同一寺院と推定しています。
[7]明治6年(1873)に廃社となりましたが、のちに町内の個人によって祭祀され復活しました。 所在地の西隣に杉蛭子町があります。
[8]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、壬生寺の南東に「東坊」があります。 神仏分離令後の廃仏毀釈によって、かつて11あった壬生寺の塔頭は中院(古名:中之坊)のみを残して廃されており、東坊は廃された塔頭の中の1つと推測しています。
[9]もと六角堂頂法寺の塔頭で中京区六角通東洞院西入堂之前町にありましたが、1868年に頂法寺から分離し、1997年に現在地へ移転しました。
都名所図会(巻之一)」では六角堂頂法寺の本堂東側に「愛染堂」が描かれています。
[10]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「願成就寺は影向松(えうがうのまつ)の坤(ひつじさる)(=南西)にあり 本尊は釈迦多宝仏の二尊なり ・・・ 故に経王堂ともいふ」
現在、経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に観音堂として移築され、仏像なども大報恩寺霊宝殿に保管されています。
[11]明治維新の際に「有乳山岩神寺(岩上神社)」は廃寺となりましたが、大正6年(1917)に織物和装業の千切屋が敷地内に祠を構え「岩上神社」が復活しました。
[12]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「京極八幡宮 上御霊門前西二町にあり 古へは京極三条にありて寺を京極寺と号し 」

更新日:2022/02/04