その他 京羽二重大全 天明4年(1784)

1.名弥陀、名観音、名薬師

京羽二重大全 現在
名弥陀
兒如来 瑞雲院 千本五辻三丁上 瑞雲院/児(ちご)如来
國寶如来 右同寺 瑞雲院/(来迎図?)
抱取如来 光明寺 寺丁くらま口下ル丁 光明寺/頼綱抱止阿弥陀如来
腹帯如来 正栄寺 三条橋東二丁上 正栄寺[1]
證拠弥陀 勝林寺 北山大原 勝林院/証拠の阿弥陀
腰掛如来 西方寺 北野信西 西方尼寺/腰掛阿弥陀如来
女人往生如来 安養寺 寺丁にしき上ル 安養寺/逆蓮華の阿弥陀
裸形如来 因幡堂ノ内 烏丸通 平等寺(因幡堂)塔頭 長伯寺[2]」廃寺
摂取如来 了蓮寺 寺町錦上ル 了蓮寺
※ 明治34年(1901)、現在地へ移転
腰押如来 長德寺 寺町革堂ノ町 長徳寺
※1672年、現在地へ移転
随身如来 教安寺 右同所 教安寺
※ 宝永5年(1708)の大火後、現在地へ移転
負分如来 蓮光寺 下寺町極楽寺となり 蓮光寺/負別(おいわけ)阿弥陀如来
戦場勝手如来 東光寺 北野右近ばヾ下ル 東光寺/戦場勝手如来
見返如来 永観堂 東山 永観堂/みかえり阿弥陀
山越如来 仲源寺 四条建仁寺丁角 仲源寺/山越阿弥陀
歯佛如来 正法寺 霊山 正法寺/歯仏阿弥陀
名観音
よつぎ
世継観音
釜座薬師堂内 薬師院
千手像 東山清水寺 清水寺/十一面千手観音
救世観音 六角堂 頂法寺(六角堂)/如意輪観音
如意輪観音 上ノ醍醐寺 醍醐寺/如意輪観音
准胝観音 醍醐寺/准胝観音
千手像 革堂行願寺 行願寺/千手観音
鈞殿観音[3] 宇治平等院 平等院 鳳翔館/釣殿観音{十一面}
千手像 西山善峯寺 善峯寺/千手観音
下醍醐一言寺 一言寺/一言観音{千手}
今熊野寺 今熊野観音寺/十一面観音
川崎観音 清和院 清和院/河崎観音{聖}[4]
千手像 西山金蔵寺 金蔵寺/千手観音
三室戸観音 宇治三室戸寺 三室戸寺/千手観音
上出雲路観音 上御霊 上御霊神社 /出雲路観音は出雲寺[5]
下出雲路観音 下御霊 下御霊神社 /観音像は成円寺[6]
四天王寺観音 北野ノ東 「金山天王寺[7]」廃寺 /如意輪観音像は廬山寺
※ 明治7年(1874)、廬山寺と合併
愛宕観音 六はら念仏寺 愛宕念仏寺
六波羅観音 六波羅密寺 六波羅蜜寺
千手像 東寺 東寺 宝物館/千手観音
勧修寺 勧修寺
鈞殿観音[3] 廣沢遍照寺 遍照寺/十一面観音
朝日観音 北野社内朝日寺 東向観音寺/東向観音{十一面}
吉田観音 東山新長谷寺 新長谷寺/十一面観音
吉田寺観音 黒谷之内 金戒光明寺/吉備観音{千手}
名薬師
薬師如来七仏内 釜座二条上ル丁 薬師院
薬師如来 比叡山中堂 延暦寺 根本中堂
七仏ノ内 八幡山護國寺 東寺 金堂/七仏薬師如来
太秦廣隆寺 広隆寺
因幡堂平等寺 平等寺(因幡堂)/因幡薬師
七仏ノ内 日野村法界寺 法界寺/日野薬師(乳薬師)
蛸薬師永福寺 永福寺/蛸薬師
岡崎村蓼倉法雲寺 「法雲寺[8]」廃寺 /蓼倉薬師
※ 大正5年(1916)以降
芝薬師大興寺 大興寺/芝(しばの)薬師
灰谷村石作寺 「石作寺[9]」廃寺
高雄山神護寺 神護寺
祇園感神院 「観慶寺[10]」廃寺 /薬師如来像は大蓮寺
※ 明治初年の神仏分離
六辻愛宕寺珍皇寺 六道珍皇寺
錦小路新町西薬師堂 亀龍院/亀薬師
不来薬師
日本七仏
釜座二条上ル丁 薬師院/こぬか薬師
[1]「月堂見聞集(巻之八)」の正徳6年(1716)4月25日の条に以下の記述があります。 「三條大橋東二丁目上る町、正榮寺腹帯如來開帳」
[2]山州名跡志(巻之二十一)」の平等寺の項に以下の記述があります。 「長伯寺 在堂西東面 本尊 裸形阿弥陀佛 立像三尺餘」
[3]「釣」の誤記と思われますが、原文のまま「鈞」としています。
[4]現在は九州国立博物館に寄託されています。
[5]上御霊神社は上出雲寺の鎮守でしたが、 上出雲寺が衰退して上御霊神社の神宮寺化し、観音堂だけが残っていました。 明治5年(1872)、神仏分離令によって出雲路観音は出雲寺(旧・念仏寺)へ移されました。
[6]田中緑紅編の「京のおもかげ」(1931-1937年刊)の続篇下37に「成円寺に残る下御霊観音堂 (大宮蛸薬師成円寺)」の記録があり、 また成円寺の門前には「洛陽 三番正観音 六番地蔵尊 成圓寺」と書かれた石標があります。
[7]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「金山天王寺は北野社東の門通にあり 天台宗にして本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり」
[8]拾遺都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「蓼倉(たでくら)薬師 満願寺の北に隣る 本尊は伝教大師の作 坐像一尺余 ・・・ 故に蓼倉山(れいさうさん)法雲寺と号す」
[9]一般には、石作寺は中世(鎌倉時代−室町時代)に廃絶したと考えられています。 しかし明治初年に編纂された『京都府地誌』には、石作寺が古くに西念寺(廃寺)と浄福寺(?西京区大原野灰方町475)の2つに分かれたこと、西念寺は石作寺趾にあったこと、浄福寺の旧名は石作寺であること、が記されています。 所在地の灰谷村から推測すると、ここでは西念寺のことを石作寺と呼んでいた可能性が考えられます。
[10]観慶寺(かんぎょうじ)は別名を祇園寺と言い、その寺域内にあった天神堂がのちの祇園社(八坂神社)となりました。 「花洛名勝図会(東山之部一 )」の祇園社の項に以下の記述があります。 「観慶寺 本殿の西にあり 薬師堂といふ」

更新日:2022/09/17