天満宮廿五ヶ所巡り 京都順覧記 天保2年(1831)
京都順覧記 現在
菅大臣かんだいじん天神 仏光寺新町西へ入 菅大臣神社
きた菅大臣天神 同 北がはつし 北菅大臣神社
醒井さめがゐ天神 醒井高辻上ル
 くわうじんの内
観音寺[1]
東寺とうじ天神 東寺中
 宝持坊之内
東寺 「宝持坊[2]」廃絶?
吉祥院きちじやういん天神 吉祥院村 吉祥院天満宮
行衛ゆくゑ天神 松尾御旅所 綱敷行衛天満宮
※ 昭和9年(1934)、行衛天満宮が綱敷天満宮と合併
綱敷つなしき天神 同 一丁東 神宮寺
一夜いちや天神 壬生南門前
 寂静庵
壬生寺 一夜天神堂
天道てんどう天神 仏光寺猪熊角 天道神社末社 天道天満宮
御園みその天神 御池大宮西へ入
 神泉院
神泉苑 「天満宮[3]」廃社
十一 高松たかまつ天神 姉小路西洞院東へ入 高松神明神社
十二 六角ろくかくの天神 六角境内東方 頂法寺(六角堂) 天満宮
十三 にしきの天神 寺町錦小路 錦天満宮
十四 祇園きをんの天神 本社のうしろ 八坂神社末社 天神社
十五 下御霊しもごれう天神 本社のうしろ 下御霊神社末社 天満宮社
十六 安禅寺あんぜんじ天神 寺町石やくし下ル
 安ぜん寺内
「安禅寺[4]」廃寺
※ 明治9年(1876)、因幡堂薬王院と合併
十七 菅家かんけ天神 石薬師二かい町 「菅家天神?[5]」廃社?
十八 長福寺ちやうふくじ天神 寺町今出川上ル
 四丁め
「長福寺[6]」廃寺
※ 明治維新の頃
十九 上御霊かみごれう天神 本社のうしろ 御霊神社末社 天満宮社
二十 水火すいくはの天神 堀川上立賣上ル
 三丁め
水火天満宮
※ 昭和27年(1952)、上天神町から現在地へ移転
廿一 清和院せいわいん天神 七本松一条上ル
 清和院
清和院 天神堂
廿二 御輿岡みこしをか天神 下立賣紙や川
 旅所
御輿岡神社
廿三 文子あやこ天神 御前通一町西
 下立賣上ル
北野天満宮末社 文子天満宮[7]
※ 明治6年(1873)、北野天満宮境内へ遷宮
廿四 経王堂きやうおうどう天神 影向松之前
 願成寺
「北野経王堂願成就寺[8]」廃寺
※ 明治3年(1870)
廿五 北野天満大自在天神 北野 北野天満宮
[1]現在、荒神口の護浄院に祀られている清荒神は、慶長5年(1600)まで観音寺に安置されていました。
[2]中井家絵図「洛中絵図」を見ると、東寺「観知院」の南西(現在の宝物館の西隣付近)に「宝持坊」があります。
[3]都名所図会(巻之一)」では神泉苑の境内に「天満宮」が描かれていますが、現在は見当たりません。
[4]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「安禅寺 同街(=京極通)石薬師御門の南にあり 真言宗」
[5]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「石ヤクシ」「ニカイ丁」の角に「タカツシ」邸があります。 高辻家は菅原氏嫡流で、敷地内に道真を祀った天神があり、高辻家とともに天神も移っていったと推測しています。
[6]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「威王山長福寺 同街(=京極通)条違橋(すぢかひばし)の北にあり 宗旨四宗兼学」
[7]上京区天神通上ノ下立売上ル北町の旧社地は文子天満宮御旅所として残っています。 また、下京区間之町通花屋町下ル天神町にある同名の文子天満宮は、北野天満宮の前身神社と言われています。
[8]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「願成就寺は影向松(えうがうのまつ)の坤(ひつじさる)(=南西)にあり 本尊は釈迦多宝仏の二尊なり ・・・ 故に経王堂ともいふ」
現在、経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に観音堂として移築され、仏像なども大報恩寺霊宝殿に保管されています。

更新日:2016/04/02