洛陽三十三番観音廻 都すゞめ案内者 正徳5年(1715)
都すゞめ案内者 現在
壱番 角堂かくたう せいぐわんじ通からす丸東へ入 頂法寺(六角堂)
二番 長ごん寺 たこやくしのずし 「長金寺[1]」廃寺 /一言観音は誓願寺
※ 明治時代
三番 下ごれう 寺町通竹や町上ル丁 下御霊神社 /観音像は成円寺[2]
四番 かうだう 下ごれうの南となり 行願寺(革堂)
五番 新はせ寺 よしだ山のいり口 新長谷寺
※ 明治時代、現在地へ移転
六番 吉でんじ くろだに 廃寺 /吉備観音は金戒光明寺
※ 寛文8年(1668)、吉田中山の吉田寺廃寺
七番 長らく ひがし山まる山のみなみ 長楽寺
八番 七くわんをん こうだいじのまへ 七観音院」廃寺?[3]
九番 せいりう こうだいじのずし 青龍寺/伽羅観音
十番 ぢざうゐん きよ水こやすのまへ 善光寺堂
十一番 おくのゐん 清水寺 清水寺 奥の院
十二番 きよみつ寺 清水寺 本堂
十三番 あさくら堂 清水寺 朝倉堂
十四番 たいさんじ こやすのたう 泰産寺
※ 明治43年(1910)、仁王門前から現在地へ移築
十五番 六はらみつ寺 六はら 六波羅蜜寺
十六番 おたき寺 松原通けんにんし町東へ入丁 愛宕念仏寺/厄除千手観音
※ 大正11年(1922)、現在地へ移転
十七番 れんげ王院 大ぶつ三十三げんだう 蓮華王院(三十三間堂)
十八番 ぜんのうじ せんゆ寺の内 善能寺
十九番 くわんをん寺 いまぐまの 今熊野観音寺
二十番 せんゆじ やうきひのくわんをん 泉涌寺/楊貴妃観音
廿一番 ほうせう寺 ふしみかいたう 法性寺
廿二番 じやうくはう寺 ひがし九でう 城興寺
廿三番 とうじ 本だうのまへ 東寺
廿四番 長えんじ 枩はら通大みや西へ入丁 長円寺
廿五番 めうじゆゐん 松原通西洞院西へ入丁 一音寺[4]
※ 平成2年(1990)以前に現在地へ移転[5]
廿六番 しやううん 四でう坊門大みや西へ入町 正運寺
廿七番 くはんをん寺 下立うり七本松通 観音寺
廿八番 さいれいじ 下立うり西の京 西蓮寺
廿九番 長ほうじ 大じやうぐんの丁 「長宝寺[6]」廃寺 /観音像は成願寺[7]
※ 明治6年(1873)、神仏分離で三之保社として北野天満宮へ遷宮
卅番 ぢざうゐん 同かみや川のにし 地蔵院
卅一番 あさ日寺 北野ひがしむきのくわん音 観音寺
卅二番 天わうじ きたのこうばいとのまへ 「天王寺[8]」廃寺 /如意輪観音像は廬山寺
※ 明治7年(1874)、廬山寺と合併
卅三番 せいわゐん 同七本松一でう上ル丁 清和院/河崎観音[9]
●くわんをんよく日まいり
正月一日 百日向 二月晦日 九十日向 三月四日 百日向 四月十八日 百日向 五月十八日 百日向 六月十八日 四百日向 七月十日 四万六千日 八月廿四日 四千日向 九月廿日 三百日向 十月十九日 四百日向 十一月七日 六千日向 十二月十九日 四千日向
[1]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「長金寺は誠心院の西向ひなり 一言堂といふ 本尊十一面観音は弘法の作」
[2]田中緑紅編の「京のおもかげ」(1931-1937年刊)の続篇下37に「成円寺に残る下御霊観音堂 (大宮蛸薬師成円寺)」の記録があり、 また成円寺の門前には「洛陽 三番正観音 六番地蔵尊 成圓寺」と書かれた石標があります。
[3]七観音院は2018年に法人番号が更新されていますが、門や堂宇がすべて取り壊され、現在は更地になっています。
[4]他の古文書情報と所在地から、「妙寿院」=「一音寺」と推定しました。
[5]昭和26年(1951)頃の京都を示した「京都市明細図」を見ると、五条天満宮(天使社)の西隣、下京区天神前町343に「一音寺」があり、 現在は跡地に平成3年(1991)8月完成のマンションが建っています。
伏見区深草谷口町にある真言宗醍醐派の一音寺が、天使山の山号をもつことから、移転先の同一寺院とみています。
[6]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「長宝寺 大将軍の西にあり 本尊十一面観音は菅神の御作にて 」
[7]成願寺の長寳堂には「洛陽廿九番 長寳寺」の扁額が掲げられています。 なお、右京区花園艮北町5の成願寺(北野天満宮七保のひとつ七之保社)とは別の寺院です。
[8]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「金山天王寺は北野社東の門通にあり 天台宗にして本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり」
[9]現在は九州国立博物館に寄託されています。

更新日:2021/02/04