上下寺町三十六ぢぞうめぐり 新修京都叢書 第三巻 平成6年(1994)
原典:新増補都雀

参照資料には「上下寺町三十六ぢぞうめぐり」の本文記載がないため、「新修京都叢書」から情報を加えました。

都すゞめ案内者 現在
じやうせん寺 くらま口きたかは 上善寺
さいをんじ 同下 西園寺
長ふくじ 同下 「長福寺[1]」廃寺
※ 明治維新の際
あみた寺 寺町今出川上二丁め 阿弥陀寺
十ねんじ 同となり 十念寺
ぶつだ寺 同となり 仏陀寺
ろさんじ 同中これう上 廬山寺
かうだう 寺町通竹や町行あたり 革堂[2]
さんふく寺 東川原新地 三福寺[2]
さいしやうじ 西昌寺[2]
十一 さいほうじ 西方寺[2]
十二 ぶつくはうじ 仏光寺[2]
十三 しんぎやう寺 信行寺[2]
十四 大をんじ 大恩寺[2]
十五 せんかうゐん 善香院[2]
十六 きやうあんじ 教安寺[2]
十七 しやうれん寺 生蓮寺[2]
十八 正ぎやうじ 正行寺[2]
十九 ふくしやうじ 出水通千本西ヘ入丁 福勝寺[2]
二十 もんみやう寺 東川原引やしき新地 聞名寺[2]
廿一 やたじ 寺町通三条上 矢田寺
廿二 せいぐわんじ 同三でう下 誓願寺
廿三 ほうせんあん 同いつみしきぶのまへ ★調査中[3]
廿四 せいたいじ 同せいぐわんじ下はらおび 「清帯寺[4]」廃寺 /腹帯地蔵は西光寺
※ 明治6年(1873)、西光寺と合併
廿五 さいくわう寺 同むかい 西光寺
廿六 しんふくじ[5] 同たこやくし下 円福寺
※ 明治16年(1883)、現在地へ移転[6]
廿七 りやうれん寺 同にしき上 了蓮寺
※ 明治34年(1901)、現在地へ移転
廿八 こんれん寺 同四でうのだうじやう 金蓮寺
※ 大正15年(1926)、現在地へ移転
廿九 きやうらい寺 同となりそめどの地藏 染殿院
三十 しゆん長寺 同四でう下 春長寺
卅一 とうげんじ 同あやのこうぢ下 透玄寺
卅二 じやうぐわん寺 同となり 乗願寺
卅三 ゑいやうじ 同となり 永養寺
卅四 じやうこくじ 同まつはら上 浄国寺
卅五 新ぜんくはうじ 五条下下寺町 新善光寺
卅六 本がくじ 五条ふや町行あたり 本覚寺
[1]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「威王山長福寺 同街(=京極通)條違橋(すぢかひばし)の北にあり、宗旨四宗兼学。」
[2]いずれも、宝永5年(1708)の大火後、寺町通から現在地へ移転しました。 元禄9年(1696)の「京大絵図」を見ると、寺町通沿いに革堂から大炊道場(聞名寺)までの各寺院が描かれています。
[3]都名所図会(巻之一)」の図絵を見ると、「和泉式部墓 軒端梅」の向かいに「地蔵」と書かれています。ここだろうと思われます。
[4]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[5]「し(志)」は「ゑ」の誤記または誤読と考えています。
[6]元治元年(1864)の京都の大火災や土地没収による境内の大幅縮小がきっかけで、明治16年(1883)に三河国額田郡岩津村(現・愛知県岡崎市)の妙心寺と寺号を交換し、本尊を含むほとんどのものが移転されました。 現在、元・円福寺の場所には妙心寺があります。

更新日:2020/05/08