吉祥院天満宮 御祭神 菅神霊(菅原道真公)

 当宮は御祭神菅原道真公がお亡くなりになって三十一年目に当る平安時代の承平四年(九三四)菅原家ゆかりの道真公御誕生の地[1]に朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮[2]である。

 即ち日蔵上人が吉野金峯山にて修行中、天満大自在天神の存在を眼の当たりにし、「若し人我形を作り我名を唱えて尊重せば其人を擁護せん」との御誓願を承り、ただちに内裏に参り朱雀天皇にこの由奏上したところ、帝は早速菅公の霊としてこの吉祥院の地に勅祀されたのである。

 此の地は桓武天皇が平城京・長岡京を経て延暦十三年(七九四)都を平安京に遷された時、道真公の曽祖父古人卿・祖父清公卿がお供して都に入り、帝より領地として賜わったところで、当時は白井の庄と称しその中央部に邸を構えて住み、六田家(福田・奥田・安田・恩田・寺田・岩田)をはじめとする菅原家一族の人々は、従来からの住人と伴に主に農業を営みながら良好な関係が築かれていった。

 承和十二年(八四五)六月二十五日に是善卿の子として道真公(幼名阿呼・吉祥丸)が誕生され、幼少の頃から才智高く、貞観四年(八六二)十八才で文章生に合格されるまではこの吉祥院に住まわれた。 御所仕えのこともあり父是善卿のすすめにより大内裏近くの宣風坊(五条西洞院 付近)に転住され、文章得業生・方略試をめざして寸暇を惜しんで勉学に励まれ、清公卿・是善卿につづき、三十三才の若さで文章博士になられた。 政治に学問に大いにその力を発揮、次つぎと昇進の道を進まれ、宇多天皇の特別のご信任もあり学者としては初めての右大臣にまでなられたが、その異例ともいえる栄達に有力者たちの不満が高まった。

 そして政略(左大臣藤原時平が醍醐天皇にはたらきかける)により太宰権帥として昌泰四年(延喜元年九〇一)正月二十五日に左遷されてからは悲運をたどられ、しきりに京のことを想いつつ、望郷の詩を幾篇となく綴られ延喜三年(九〇三)二月二十五日ついに冤罪を晴らすことなく病苦のうちに誠心の生涯を閉じられた。 御年五十九才であった。

 天満宮として祀られて後は各地各層からの浄財の寄進多額にのぼり社殿は雄壮になった。 鳥羽天皇は天仁二年(一一〇九)菅公二百年御忌の祭典を特別盛大に行なわせられ、以後毎年二月二十五日には御八講料を賜わった。 その後歴代の天皇も年々盛大に勅祭を行なわれるようになった。

 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉により神領・八講料など悉く没収された。 かつて秀吉の家臣と天満宮神領民との間で衝突があり、秀吉が関白・太政大臣になると家臣がこの事を悪く告げ、秀吉の勘気を蒙ったことによると伝える。

 その後勅祭も廃止され、江戸時代には余儀なく規模縮小となり、神社費確保とため[3]江戸をはじめ各地にて御開帳を行なうなど維持に苦心した。

 明治三十五年の菅公千円祭以来、氏子崇敬者の篤い御支援を得て逐次復興に努め、本殿改築(昭和二十八年)や吉祥天女社の大修理(昭和三年)、境内神域の拡張整備(昭和三、二十七年)、祝詞殿新築(昭和五十二年)、平成十四年の菅公千百年大萬燈祭には拝殿改築や文章院新築などなし得たこと、道真公の高き御神徳の賜と深く感謝するところである。

出所:『吉祥院天満宮』パンフレット


[1]道真の誕生地とされる場所は他にもあります。詳しくはこちら
[2]最初にできたとされる天満宮は他にもあります。詳しくはこちら
[3]「のため」の誤植と思いますが、原文通り表記します。

更新日:2021/01/05