吉祥院天満宮詳細録 第一章 p8 - 11
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吉祥院天満宮略縁起

抑々此地は菅公の曽祖父古人卿フルンドキョウ及祖父清公キヨトモ卿の領土となりしより、此所に文章院を造立し給い。 又延暦廿三年清公卿遣唐使として入唐の節、海難に遭遇す、其時伝教大師求法の為め同船なり。 大吉祥天女に御祈りありしに、天高く雲間に天女の尊容示現し給いて風浪速かに治まり恙なく明洲に着き給う。 さて使節を全くして御帰朝後清公卿は天女の尊像を刻み、伝教大師とはからい、菅原院庭上に一堂宇を建立して之を安置し、吉祥院(吉祥天女院)と号し国家鎮護、菅家守護の御祈祷所とし給う 時は大同三年なり 之を菅公の父是善コレヨシ卿に伝え給う 此院今に存す。 菅公は仁明天皇承和十二年六月廿五日当地七男畠と云う所にて生れ給い、此地にて御成育あらせらる。 之より是善卿の後を継ぎ御子孫も代々当地に住み給う。 されば此地は菅家累代の領地なり。 菅公御降誕の霊跡なることは、清公卿御自刻の尊像及菅公の刻み給いし是善卿の尊像を祀れる堂宇と、清公卿並是善卿の御墓所の存すると。 尚菅公の胞衣塚、産湯の水の旧跡ある事によりても明なり。 今より九百九十五年の昔承平四年朱雀天皇菅原道真公の尊像を御宸刻ありて、此地に奉祀し給い、名を大自在天満宮或は吉祥院聖廟と称へて年々勅祭を行い給いき。 されば此社は勅命を以て菅霊を祭り給いたる最初のものにして由緒正しき御社なり。 げにや御幼少の頃御勉学の時の、硯の水、又は朝廷へ御参勤の時御姿を写し、御口をすすぎ給いし、カガミイド、 さては、秋の夕べ愛牛に召して、虫の音を聞き給いし、六田ムツタモリ(音ききの杜)及庭前の池(俗に御池ミイケ)等の旧跡も今尚存し、 又境内に近き地には樹齢千年以上を経たる老樹も有り、キタ政所マンドコロの御住所跡なる政所という名称も残り、 御墓所の存するにても一きわ由緒ある地なることを知るべきなり。 鳥羽天皇天仁二年二月廿五日より年々御八講を修し給い、 歴代のミカド深く尊信ましまして年々盛に勅祭を行い給いしに天正の頃時勢の変遷により勅祭を廃せられて、一時大に衰頽に帰せしが、 元和の頃今の社殿を再建造営し又明治卅五年、一千年祭の際、神殿末社の修繕を行い神苑を拡張し、池を掘り花樹を植え、 本年(昭和三年)に至りて、菅公一千廿五年祭の大祭を勤修するにあたり、天女院の大修繕及本殿末社の小修繕並薮地を開きて宝蔵及雑具納家を造立し境内を拡め神苑道路の境には石を積み花樹を増植して其面目を一新し御神徳に報い奉れり。 又本社前の唐門は東福門院殿より御寄進ありしものなるも今は規模を縮めて存し、 東鳥居額面は、後水尾天皇の御宸翰なるも世に知らるること少く結構は往時の盛観に比すべくもあらず、 されど此御社の由緒は右に述べしが如く、いと正し。 世の人々続々来り詣て、此旧跡を尋ね、吉祥院天満宮の御高徳の明なることを仰ぎ敬い玉えば、いとど昔の偲ばれて此名地ある事を知り玉うのみならず又此大神の御意にも善く叶い申すべきなり。

昭和三年十二月二十五日

吉祥院天満宮神司 石原(菅原)定正謹書

更新日:2021/01/09