吉祥院天満宮詳細録 第三章 p34 - 38
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承和九年十月十七日清公卿御年七十二才にて薨じ給いしより毎年此の御忌日には、当吉祥院にて、吉祥院悔過法華八講会を修せらるこれを吉祥院御八講と称う。

(一)吉祥院天満宮旧跡 干中
当社より南六町余の地(田園中)清公卿の御墓と云ふ所今に存す。
(二)菅家伝第一 干中
同(承和)九年十月十七日 薨 吉祥院八講是也』
(三)菅家文草 吉祥院法華会願文 干中
『又余家吉祥院悔過久用孟冬十月
(四)続日本後記抄 干中
承和九年十月丁丑文章博士従三位菅原朝臣清公薨故遠江介従五位下古人第四子也 父古人儒行高世不人同家無余財諸児寒苦清公年少略渉経史 延暦三年詔令東宮弱冠奉試補文章生学業優長挙秀才 十七年対策登科除大学少允 廿一年遣唐判官兼近江権掾 [1]三年七月渡海到唐与大吏倶謁天子顧眄 廿四年七月帰朝叙従五位下大学助 大同元年尾張介刑罰劉寛之治 弘仁三年秩満入京補左京亮大学頭 四年主殿頭 五年右少弁左小弁式部少輔 七年従五位上阿波守 九年詔書天下儀式男女衣服皆依唐法五位巳[2]上位記改従漢様諸宮殿院堂門閣皆着新額又肆百官舞踏故朝議並得関説 十年正月加正五位下文章博士読文選参集謹事 十二年従四位下式部大輔尋任左中弁意求右京大夫上従容問京職大夫官品清公朝臣対日正五位官即日改為従四位官左亦同十四年弾正大弼 天長元年出為播磨権守左貶時人憂二年八月公卿議奏国之元老不遠離更使使都兼文章博士 三年三月亦遷弾正大弼信濃守復転右京大夫文章博士如八年正月授正四位下 承和二年但馬権守読後漢書 六年正月叙従三位老病羸弱行歩甚艱勅聴牛馬南大庭梨樹底斯乃稽古之力非侚求所致 其後託病漸絶入内仁而愛物不殺伐像写経以此為勒恒服名薬容顔不衰薨時年七十三[3]
[4] 菅家伝第一 干中
『菅原清公卿 遠江介古人四男
嵯峨天皇御侍読右中弁始渡儒道三度入唐策両朝儒聴牛車 宣旨仁明天皇御侍読従三位
宝亀二辛亥年 誕生 桓武天皇延暦四年十二月甲申古人之男四人給衣粮令勤学以父侍読之労也(給料起始於此矣)
延暦三年補秀才、同年任美作少椽、二月廿五日策(黄帝湯武高卑釈季礼三教)四月十三日判不第 任大学少允、 同廿一年入唐、 同廿四年帰朝、 弘仁二年廿二才叙従五位下、 同三年(小寺後記)廿三才任左京亮、同月遷大学頭、 同四年廿四才遷主殿頭、同年正月廿五才叙従五位上、同月任右少弁、同年五月転左少弁、任式部少輔、任播磨守、 同十年正月叙正五位下 同年(注従四位時ニアリ)兼文章博士 (注弾正ノ次ニアリ)為侍読文選 同年任左京大夫、同年十二月叙従四位下、任式部大輔、転左中弁、 同十四年任弾正大弼、 天長十一年正月十二日兼摂権介、叙正四位下、 承和二年七月為侍読後漢書 同六年[5]蒙牛車宣旨、 同年十一月七日兼但馬権守 同三年二月転守、 同六年正月七日叙従三位(左京大夫博士等如元)
勅聴乗牛車到南大庭梨樹底依老病羸弱行歩有難之故也、 同九年十月十七日薨吉祥院八講是也、 建吉祥院又建文章院西曹司始祖也』

清公卿薨後子息参議是善卿後を継ぎ給いて当菅原院より日々朝廷に出仕遊ばされしなり。 参議菅原是善卿元二子おわせしが早世し給いて御子おわしまさざりけるを深く愁い給いて伊勢大廟及吉祥天女に御祈誓有りければ仁明天皇承和十二年[6]丑六月二十五日当菅原院御本邸の南庭に天神あらわれ給う。 此所を七男畠と号す。 其御誓願により法華経、普賢経、無量義経、般若心経を書写して、吉祥院に奉納し給えり。 天神の御母堂を伴氏と申奉る。 めぐみとおぼす御心を以て家の風をもふかせてしかなと天神を様々に御養育也 (当社縁起干中)

[1]「廿」の誤記と思われますが、原文通り「十」と表記します。
[2]「已」の誤記と思われますが、原文通り「巳」と表記します。
[3]「二」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[4]「(五)」の記載漏れと思われます。
[5]「六月」の誤植かもしれませんが、原文通り「六年」と表記します。
[6]「乙」の誤植と思われますが、原文通り「て」と表記します。

更新日:2021/01/11