吉祥院天満宮詳細録 第三章 p57 - 66
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吉祥丸様には前記の如く当菅原院に御降誕後当地に於てすくすくと御成長遊ばされしが。 仁明天皇の御宇承和十四年御年三歳に成らせ給いし時重病(疱瘡病)を得給いいと危う見えければ御両親の御憂慮一方ならず、母公の吉祥天女に一七日御参籠御祈願になり又観音薩捶[1]の御威力を仰ぎ児の病を癒させ給え。 新に十一面観世音の像を造り仰ぎ奉らんと御祈誓ありしがむなしからず御病い癒ゆることを得たり。 (当社縁起 口碑伝説 干中)

(一)菅家文草 吉祥院法華会願文 干中
『曰汝幼稚之齢得病危困余心不哀愍之深観音像之願念彼観音力汝病得除云云』

(二)吉祥院三善院巻物(天承元年五月十八日) 干中
『菅公御年三つに成せ給う時重病を得給いいと危う見えさせければ父母の歎傷あさからざりき。 されば母公伴此愁傷の余り歩を吉祥天女に運び一七日祈誓ましまし又観音薩捶[1]の威神力を仰ざ[2]深く願をおこしてのたまわく願は大悲尊哀愍をたれ児の病う平癒せさせ給いたまい新に十一面観音の像を造立し奉らんとなん。 これによりて感応むなしからず不日に泗痾いゆることを得給いければ父母の歓喜いと深かりけりそれより後作文詠歌衆芸世にいなく聞侍りき』

(三)吉祥院三善院別巻物 干中
凡同前

(四)近畿歴覧記 干中
『清の子是善子なし。 天女に祈り玉て天神を拾得たり。 歳の時病大に発り天女に祈り玉う。 此時疾病平復せば手ら天女を刻ましめ法華経、無量義経、普賢経、般若経を紺地に金泥にて書写せしめんとの誓願なり。 果して病痊、是善則ち天神へ書写可成否とあり。 即刻領掌し玉う。 其の作る天女の像干[3]今あり。』

(注)は公の誤、は三の誤、天女は観音の誤 是善と母公伴氏とに誤あり。

又『四部の経は一旦宝蔵炎上の時焼失す。 然るに其の灰内に金字多くは残れり。 箱の内に其の灰を納め置けり』

菅公天性英明にして幼より学を好み才智衆を抜き一を聞きて十を知り習わずして義理貫通し給えり。 父是善卿は当時有右[4]なる田口達音(田達音とも島田忠臣とも田進士とも云う)と云う博士を当地に呼び住わしめて日夜学問を授けらる。 又吉祥丸様幼少時代より梅、松、桜を特に好まれ給いしかば是善卿は以前よりありし御庭園の木石を取り除き、梅、松、桜を多く御植付け給えり。 今より二三百年以前には御当時の老梅、老桜数多ありしも年々枯損して現今は一二を残存せるも見るかげなし。 二抱へもある老桜も四十年前に倒れて枯れはてしは遺憾なり。

(一)天神記図絵 干中
『菅公御幼名を三と申奉り是より後は菅原院にましまし相公是善卿を父と仰ぎ儒の家業をつがせたもう。 相公田口達音と申博士をよびて常に御素読をあげさせたまいけるに生知の御才習わずして義理貫通し給えりとぞ』

(二)田口達音本名島田忠臣公も当地に住み給い御女宣来子も此の地に生れ給い後には北の政所とて菅公の御夫人と成り給いしなり。

(三)家記 干中
『正一位菅原太政大臣諱道真参議従三位行刑部卿是善(古人四男曰清公任経文章博士従三位清公長男曰是善)三男母大伴氏也、 少而好学博渉経史壮工文兼詠和歌事文章生田口達音門弟之中為貫首 貞観四年四月十四日式部省試賦賛五月十七日及第(文章)此日補文章生

(四)近畿歴覧記 東寺住還 干中
『是善公の宅地此の森(吉祥院の森)西南の隅にあり今は七難田と云える田地の字となれり、七難の事不其謂此の七難田の宅に簾中田口氏を移さる』

(五)筑前国続風士[5]記 干中
『鎮西府、今はなくて谷深き山ぶところなれど御社有故今も猶人寰多くしていらかをなべたり。 斯る霊地に自ら宮柱をふとしき立しも神徳のいとすぐれさせ玉える故成べし (此里は昔より鶏を飼わずいかなる故と云う事を不知是も河内の国土師の里のことを受ているなるべし) 菅公詩歌を好み玉い御心はせ風雅におわしましけるが常に梅をなん深くめで玉いければ御社の辺にも梅を多く植まいらせ今に至てしかり。 又松もいとめでたき物におぼし玉いけるとぞ凡松は万木のしぼめるにおくる霜雪を経て緑をあらわし歳寒の操あり。 梅は色も香もいといさぎよくして万の花にさきだちひとり雪の寒きをおかして開くこと実にいみじくあれむべき花なり。 松梅ともに君子の徳になぞらえければ殊に御心叶ててぞ聞えさせ玉いけるもむべなり。 又都にて東風吹かばと読せ玉いしに紅梅一夜に太宰府に飛来しと、世には云伝へ侍る。 其梅を飛梅と称しける。 其木はたねをうえ伝えて今もおまえにあり。 新古今神祇部に「情なくおる人つらし我宿のあるじわすれぬ梅の立枝を」

此歌は建久二年の春筑紫へまかりける者の安楽寺の梅を折て侍ける夜夢に見えけるとなむ。

又桜をもことにめでさせ玉いしにや。
後撰集 菅原右大臣

家より遠き処にまかる時前栽の桜の花にゆひ付けける。

「桜花主を忘れぬものならば吹こん風に言伝わせよ」斯く生前に御心を留められし木なれば迚鳥居の外なる通路の左右に並木の桜を植て桜馬場と号す。』

吉祥丸様御年五歳の頃一日達音に連れられ禁裹[6]の応天門へ参られ弘法大師の記せる投筆、応天門の額を頻りに御覧あり見覚して帰邸後応天門と初めて筆を執りて書かれけるに字劃正しく筆跡常ならざるに一同大驚したり。 御両親の御喜びも一入なりきと。

吉祥丸様御年六歳の頃父是善卿庭中の梅花を見て歌を詠まれよと仰せられしが直ちに筆をとりて、

うつしや紅にもにたる梅の花
あこが顔にもつけまほし(脱字あらん)

と。 北野天神の古事巻物に見えたるも当地なり五十五代文徳天皇仁寿元年吉祥丸様七歳にして法花経一部を書き写されしも此の地なり。 又其の年の夏関麿という陪僕御庭掃除中二頭の蛇を見る。 古より両頭の蛇を見し者は三年の中に必ず死すとあれば関麿打驚き色を変えて泣きかなしむ姿を見給いし吉祥丸様は側にありし弓折を取り走せ参りて打殺して土中に埋め給う。 これを見たる田口達音公は吉祥丸様の御寿命に障ることあれば一大事と苦慮一方ならず、此の事を聞き給える是善卿は幼年ながら吉祥丸の計らい感服いたす決して寿命に障りあるべき道理なし。 陰徳あれば陽報あり。 昔漢土に楚の孫叔敖という者両頭の蛇を見て、他人には見せまじと思いて打ち殺して埋めしが、矢張心にかかり食事もせざりしを母が陰徳あれば陽報あり汝の行為は陰徳なり。 天道必ず福を授け給うこと確実なりといい渡されしが、此人後に楚国の重臣となる。 吉祥丸の計い恰も孫叔敖に似たり達音必ず憂うる勿れと申し給いしと。

斉衡二年吉祥丸十一歳の冬十二月是善卿は田口達音と共に、月こころよく晴れて御庭の梅と匂い照りあうゆうべ父相公は吉祥丸の御髪をかき撫つつ、一つ詩を作り給いなむやと。 試に申させ給えば少しも案じ給う御気色もなくて、月夜見梅花という詩を五言絶に作りて父相公の御前にぞ参らせられけるも当地なり。

月輝如晴雪[7] 梅花照星
憐金鏡転 庭上玉房馨

初めて作らせ給える御詩なるにかかる御秀吟なりければ、蘭生じて芳しとは信なるかなと御感歎あそばされ行末たのもしくぞおぼされける。

(一)右の詩菅家文草 干中

(二)菅家聖廟暦伝 干中
『菅子十一歳冬十二月菅子因厳君令田進士試問子若可詩否菅子少無吟案色忽題月夜見梅華曰 月耀如晴雪梅華似照星憐金鏡転庭上玉芳馨自此九重名誉盛』

是よりして御学問日々夜々に進ませ給いしが十三四歳の頃には早くも父相公の御才智よりすぐれ給いて天が下に並ぶ人なきにいたる。 天安二年吉祥丸様御年十四歳の十二月、臘月独興と題して詩作ありしも当地なり

玄冬律迫正堪嗟 還喜向春不敢賒
尽寒光休幾処 将来暖気宿誰家
氷封水面聞無浪 雪点林頭見有
恨未学業 書斉窓下過年華

(一)右の詩菅家文草及菅家聖廟暦伝 干中

[1]「埵」の誤記と思われますが、原文通り「捶」と表記します。
[2]「ぎ」の誤記と思われますが、原文通り「ざ」と表記します。
[3]「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。
[4]「名」の誤記かもしれませんが、原文通り「右」と表記します。
[5]「土」の誤記と思われますが、原文通り「士」と表記します。
[6]」の誤記ですが、原文通り「」と表記します。よく似ていますが別の意味の漢字です。
[7]返り点「一」の記載漏れと思われます。

更新日:2021/01/24