吉祥院天満宮詳細録 第五章 p102 - 109
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第五章 菅公三十六歳にして父是善卿薨後当吉祥院菅原院御本邸に帰られしより薨去迄での当地との関係

陽成天皇の御宇、菅公御年三十七歳なり。 元慶五年十月廿一日より同二十四日まで四日間当吉祥院に於て遺命を失堕せず父是善卿の御一周忌御追福のために数多の僧侶をまねきて法華御八講会を行わせ給う。 此時御母公の御遺言ありし十一面観世音尊像の御自刻も麗しく成就ましましければ吉祥天女院に安置して開眼供養せられ凡そ九箇年の御宿願をとげさせ給いき。 吉祥院法華会願文によりて明かなり。

吉祥院法華会願文(元慶五年十月二十一日)
弟子従五位上式部少輔菅原朝臣敬白 吉祥院建立之最縁勝会願文叙之詳矣 伏惟弟子慈親伴氏去貞観十四年正月十四日奄然過去及周忌先考法華経一部八巻、普賢観経、無量義経各一巻、般若心経一巻時也、 此院未立便於弥勒寺講堂略説大乗之妙趣長逝之尊霊 弟子位望猶微心申事屈泣血而巳更無所営又先妣亡去之日試弟子 曰汝幼稚之齢病危困余心不哀愍之深観音像之願念彼観音力汝病得除愈自汝有一レ禄割其上分分寸相累用度可支 発願之本雖汝身解緩之責恐余累 弟子自奉遺命三四年来雕飾纔成礼供猶闕白後朝恩不遺官爵過分即作念日所得禄棒先資報恩之後以遊費爰損節経用設禅供元慶三年夏末風月之下定省之間以斯一念略達先考 先考曰善哉 汝作是言余建一弾[1]二部経最勝妙典依余発願 先年講畢法華大乗寄汝報恩共随喜 唯念懸車巳迫死門在前須明年因縁已余無後累 又余家吉祥悔過久用孟冬十月法会期宣彼節 弟子敬奉慈誨敢軽慢是日輪不駐星律巳廻二月下旬 弟子始甞薬中秋望日先考遂薨 遺誡之中更無他事 唯有十月悔過一レ失堕 而巳今八月既過父服先除正月未来母忌猶遠起二十一日二十四日拝禅衆批法莚仰者新成観音像説者旧写法華経 始謂就冥報 以共利存亡今願仮善功 而同導考妣嗟呼所弟子 不失者今日開会之朝弟子所先考 相違者去年薨逝之夕弟子無父何恃無母何帖不天不人身之数奇夙為孤露 南無観世音菩薩南無妙法蓮華経如所説所誓導弟子之考妣 速説[2]大菩提果無辺功徳無量善根普施法界皆共利益(文草干中)
(一)吉祥院三善院巻物 干中
『御父相公薨じ給ふ時尊容(十一面観音像)造立の遺誡又切なりきとなん。 父母の遺命浅からざりければ善を尽し美をいたし修飾いと止なく成就ましましぬれば陽成天皇元慶五年冬十月(従廿一至廿四日)吉祥院法花会の砌禅衆を礼拝し法莚を開披し新成観音の像を供養して宿願を解げさせ給いき。 厥願文云所仰者新成観音像所説者旧写法華経始謂就冥報以共利存亡今願仮善功而同導考妣云々(文草)即吉祥院に奉納ましましき。 云云偉矣 観音即菅丞相と変化ましまして造立し給へり成験の尊客なれば当社天満大自在天神の本地より尊崇し奉る也  古謂五神の補陀三十一応之一他方此界何所不臻されば観自在尊は縁の大士渇也抜済の導師なり普門示現の春の花は匂を三十三身の袂に施し入重玄門の秋の月は光を十九説法の露に塋し給う。 眼を開ひて尊容を拝し奉れば面輪端正の相好魏々として歓喜の涙裳を潤し心を〓[3]めて本尊を念し奉れば慈悲覆護の領袖都々として感歎の思い肝に染めり、 是故に歩を当堂に運ぶの人は三毒七難を身の上にはらい誠を此尊に致すの輩は二求両願を心の中に語しぬ殊には疱瘡の病をやすからしめ平産の難を守給う。 伝聞昔し当村に一老婆あり常に此観音を念しき、有時隣家に火災あり依倍なければ一心に此観音を念し火災のがるる事を得 又文永年中に東寺の辺某娘疱瘡を得いと苦ければ母一心に此観音を念しあることを得 又建武年中に当村某しの女房難産に苦みけり偏この観音を念し一心に称名しければ漸時に平産しけるとなん。 又元和年中大阪落城の時敗軍の徒草中に隠れ居けるを当村の某し人に語り知らせければ武者一箭をはなち射殺さんとしけるに矢それて当らざりき此人常に此観音を念しける故なり、それより猶信しけりとなん。 古今霊験新なること称計るべからず。 善男善女渇仰の首をかたむけ信心の水すみなば諸願立処に満足せずという事なからんのみ即時観其音声皆得解説の利生誠に仰くべし信ずべし。』
(二)天神記図絵 干中
『同(元慶)五年十月廿一日城南吉祥院に於て是善卿の一周忌追福のために僧侶をまねきて、法華会を行わせたもう。 此時御母堂の御遺言ありし観音の尊像をかねて彫ませ給いしに成就いたしければ吉祥院に安置して開眼供養せらる』
(三)拾芥抄 干中
元慶五年辛丑十月二十二日式部少輔兼文章博士菅原朝臣供養吉祥院
(四)僧綱補任抄 干中
前文に同じ
(五)北野由来 干中
五年(元慶)十月吉祥院にて先考先妣の供養を行いたまいしがその願文の中に無父何恃無母何怗不天不人身之数奇夙為孤露の御句ありいたましき御事の限というべし』
(六)歴代編年集成 干中
元慶四年三月三十日辛亥参議後三位行刑部卿菅原朝[4]是善薨春秋六十九十月二十二日式部少輔文章博士菅原朝臣供養吉祥院
(七)字類抄 干中  同
(八)帝王編年記 干中  同
(九)幾 諸寺付霊験所 干中
『吉祥院 陽成天皇御宇元慶五年辛巳[5]十月廿二日丁酉式部少輔兼文章博士菅原朝臣之供養』

さて十一面観世音の御尊像は吉祥天女院に奉納して安置し給う。

これより後は父是善卿の御遺誡に遵いて毎年十月十七日祖父清公卿の御忌日を以て菅家祖先の御追福御法要を修する日と定め給えり。 是即吉祥院悔過法花会御八講とも云ふ。 吉祥天女院及び菅家に於ける最大法要なれば多くの僧侶を呼びて修め給いしなり。 菅公左遷と同時に一時中止の姿なりしが天満大自在天神と成らせ給いしより漸く復興し承平四年朱雀天皇自ら菅公の像を御宸刻ありて由来深き当地に祭祀ありしより当菅家の後裔代々社務職並別当職を兼ね祭祀及御八講同時に行われ其の後北野神社御創祀以来当地との関係密接にして両立し代々の帝も御尊崇ましまして祭祀法要盛大に行われしものなり 当時は神仏混淆なるが上に菅神は神にも通じ仏にも通じ給えるが故なり。

(一)菅家伝第一 干中
『清公卿承和九年十月十七日薨吉祥院八講是也』
(二)公事根源 干中
『吉祥院御八講自天仁二年始行』
(三)外記日記 干中
『三所御霊 西寺、上出雲寺、吉祥院等也』
[1]「禅」の誤植のように思いますが、原文通り「弾」と表記します。
[2]返り点「二」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。
[3]〓は手偏[扌]の右上に[甘]その下に[岡]を書いたような漢字です。
[4]「臣」の脱字のように思われます。
[5]元慶五年の干支は辛巳ではなく辛丑です。

更新日:2021/01/11