吉祥院天満宮詳細録 第五章 p117 - 126
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寛平二年菅公四十六歳の春讃岐国より召返され給う。 国民菅公を慕いて此時より菅公の生霊を家々に祭り始めとし今に彼の国にて七月廿五日滝の宮の踊りとて天神の祭あり是其余風なりと申伝う。

讃岐より留守宅なりし当吉祥院御本邸に帰らせ給いて後一年ばかりは年頃の御疲れもあり、且つさして定まれる御役付もあらず、引きこもり勝にておわしませり。 然れども其の問に兼ねて勅命を蒙り給いし、国史の部類の御編纂に御尽力ありしものなり。

寛平三年二月昇殿を許され給う是より御立身旭日の昇るが如し。 同四年五月には前記の類聚国史二百巻を奉られ同五年二月十六日参議に進み同日式部大輔に叙せられ父是善卿と御同官まで進み給う。 同六年菅公御年五十歳となり給いし八月遣唐大使となられしが無益のみならず損失多く国威にも害あることを奏上して入唐を廃せらる。(天神記図会干中)

寛平六年九月二十五日門徒の人々当御本邸なる吉祥院に集まり菅公五十歳の御年の賀を修せしめける時法会の面に翁のわら履はばきしたるの願文に沙金を取添てようよう歩寿堂の前の案上に置て云事もなく急ぎ去りぬ。 あやしとおもいて開たりければ

伝聞菅家門客共賀知命之年弟子雖跡人間名世上 尚数記淳教之風多改春昧之過 古人有言無徳不一レ報無言不一レ深感彼義罷不能故福田之地捨此沙金 金以表中誠之不一レ軽沙以祈上寿之無一レ涯莫其人其志 遠居北闕之以北遥増南向之和尚

とこそ書かれたりけれ 少増[1]勝延導師にて讃歎しき忝も天子の修し給いけるにや希代の勝事とぞ富楼那の弁舌を演じたまいける(当社縁起干中)

(一)吉祥院三善院縁起巻物 干中
『堂の前と名る処は昔例年法花会を執行いける法花講堂辺りなり。 寛平六年九月菅丞相の門徒吉祥院にて五十の賀を修し給う時草鞋の翁に冷と願文とをささげ堂の前に立けるを導師勝延僧都捧て読給い「此是天子之所為願」といいし処なり 旧跡を字して堂の前となづけ田宅となり伝りき』
(二)北野縁起之類本 干中(北野事跡中)
寛平六年なが月のころ門徒の人々たかきもいやしきも吉祥院にあつまりて五十賀の御年のよろこびの会をしめけるとき法会の庭を見やればわらくつにはばきしたる翁来りて願文に沙金を添て云々』
(三)天神記図会 干中
寛平六年九月城南吉祥院にして菅公五十の賀を行わせたもう。 御一門の人々は申に及ばず御門弟其余の貴賤群集せり法会の半に藁ぐつはばきしたる翁来りて願文に沙金一袋を添て堂前の机の上におき何ごともいわずに急ぎ去ぬ。 人々あやしみて其願文をひらき見れば 伝聞菅家門家[2]共賀知命之年云々 とぞかかれたる 辱[3]なくも帝の贈りたまえるなりしとぞ』
(四)聖廟暦伝 干中
『九月重陽云々二十五日菅子門徒於吉祥院五十賀此時草鞋翁捧沙金及願文云々』
(五)宇多紀略 干中
『是月菅家之門徒於吉祥院参義道真卿五十賀一男草鞋纏携一巻庭砌案上告而去 衆怪而見之乃願文也 中包砂金 蓋天皇設為脱屣者之言而所托也 其詞曰、伝聞菅家門客共賀知命之年云々』
(六)本朝神社考 干中
寛平五年二月進為参議六年九月門徒於吉祥院五十賀  ([4]時草鞋者捧沙金及願文其詞曰伝聞菅家門客共賀知命之年云々  導師勝延僧都曰此是天子之所為歟云々』
(七)北野誌、天神記上 干中
寛平六年長月の比、門徒の人々貴も賤も吉祥院に集りて五十の御年の賀を会修せしめける時、法会の庭の面に翁の藁鞋脚絆したるが願文に砂金を取添て漸々歩寄りて堂前の案上に置て云事もなく急ぎ走りぬ 奇と思いて披きたりければ  伝聞菅家門客共賀知命之年云々(略)』
(八)菅神和光伝 干中
寛平七年五十歳八月二十日勅定遣唐使彼国依干戈之動乱止、九月於吉祥院五十賀十二月十五日兼侍従大弁長官大輔如元』
[5]菅神年譜略 干中
六年甲寅公五十歳秋八月勅公為遣唐大使右少弁紀長谷雄副使藤忠房為判官 九月公上請公卿議定遣唐使進止 是月諸門徒於吉祥院公五十賀一男子草鞋行纏携一巻庭砌案上告而去表怪而是之乃願文也 中包沙金 蓋天皇設為脱屣者之言而所託也 其詞曰伝聞菅家門客共賀知命之年弟子云々』
(十)北野縁起上巻抄 干中
『門徒の人々。 御弟子衆なり菅公儒家ゆえ其御門衆也 たかきも賤もとは人品の貴賤に非ず官位の浅深なり。
吉祥院。 東寺の南なり祖父清公卿建立の地御祈所也(御氏寺) そこにて菅公の五十賀有也 寛平七年九月の事也(私御簾中此所に住給ゆえ吉祥女と申にや)
堂前の案上 吉祥院の本堂の前の机也 案上は机類なり 五十賀に法会不審の由云人あれども僧都勝延導師にて仁王大般若など有し故法会と云に不審なし。
伝聞菅家門客共賀知命年 知命論語五十知天命
弟子雖跡人間無各世上而数記淳教之風多改惷昧過
弟子とは嫌退の辞なり我人間たりといえども我名世上にも知るる事なしとなり数記淳教風とは菅家の淳教とあつきおしえの風に習て我惷昧のおろかにくらきあやまちを改となり。
古人有言無徳不報無言不酬  詩経に見たり然るを讐の字諸本酬の字に作誤れり 但讐酬義同然らば書来れるまま酬の字を可用也 詩蕩之什抑編曰、無易由一レ言兂曰苟矣莫朕舌言不逝矣無言不一レ讐無徳不  深感彼義罷不能 彼義は菅家の淳教なり
福田之地捨此砂金 寺を福田と云事は福を栽置田と云心也
金以表中誠之不一レ軽 金を只今捧る心は金は七宝の随一にして人々の重くするもの故私の中誠のかろからざるを表するため金を送ると也
砂以祈上寿之無[6]涯 浜の真砂はよみつくすともなど云て不尽事にいえり千歳を上寿と云。
其人其志 唯今願文砂金を捧る人を唯と疑事なくとも只其志を求めよと也
遠居北闕之以北遥贈南山和南 北闕は大裏也 以北の以の字に心なし以東以南と云に同じ禁中の北に住居しての心也 南山は吉祥院を云禁中より尤南の方也、 和南は致敬の梵語也 帰命と云に同じ然れば導師勝延に送りて敬白と云心也
[7]師 是菩薩衆中に有四の導師云々仏法に導引師匠と云心なるべし
天子 白虎通曰王者父天母地亦曰天子は天の子也。
少僧都勝延 職原抄曰僧都(准四位)殿上人)此人系図所見なし私古今中の作者勝延(うつせみはからを見つつも慰みつ此作者也)
富楼那 説法第一也父天道に祈りて求たる子也云々』
(十一)北野縁起 聞書 干中 六段
寛平六年 此段六ヶ敷也 一義云天子御賀也云々 然ども天神御賀也 爰にて天神御歳しるる也 承和十二年乙丑生給て今寛平六年まで五十歳也云々
門徒 菅家御門弟也
会修 賀の会也 法会とは賀には寺々にて仁王経大般若経なんどを読誦して祈念するぞ、
翁のわらくつ 草鞋也 或説此翁天上より下ると一向さにあらず天子なさることとぞ
伝聞 文にてはつねに耹と読むしかれども縁起などにはつたえ耹と読べし聞説の意也 門客は門徒人々也 弟子とは翁が吾身を指して云ぞ翁昇下して曰名無世上然今菅家随[8]徳風惷昧之過となり惷昧はぐちにくらき人ぞ 然に古人語に如是人の恩徳を受れば又報ずる者と云也 されば今古人の語に依て罷んとすれどもやめられぬ故此寺に捧沙金
福田 寺の異名也 寺は善を修処也 故於当来祥或為十善之身或作福貴之人故所福田地也 故云寺曰福田
金云々 金は万物の中にて尤重宝なれば己が意の表
上寿 千年曰上寿言は寿の長きことぞ砂は数多して不尽者也 故比上寿莫疑云々  此翁を何人ぞと茣疑只是まで来る可志と也 さて次句にて我居処を顕す禁中の北に居者と也 北闕は禁中を云、以、北は只北と云ばかりの意也 以字に心なし以東以南と云も以に意なし、
南山云々 吉祥寺は禁中南にあり故南山と云和南とは梵語也 致敬也、 不[9]致敬而曰和南対句故に梵語を其侭に用也、
少僧都 勝円僧都其日の導指[10]也 寺[11]祥寺住僧これが導師にて讃嘆せらるる也 忝もより評判の語也 此願文の希代あることは天子の修し給ゆえにや 但し富楼那の天下でなせる弁舌にやと二のにやの字に心を付べしと云々
富楼那 仏の十代[12]弟子の内以弁舌世人也
春宮にて 此時分は延喜帝即位時也、 寛平七年十一月[13]即位号醍醐天皇延喜元年よりは延喜御門とも申す。』
[1]「僧(僧)」の誤記と思われますが、原文通り「增(増)」と表記します。
[2]「客」の誤記かもしれません。
[3]「辱」では意味が理解できません。「宸」の誤記かもしれません。
[4]何の誤記が不明ですが、原文通り表記します。
[5]「(九)」の括弧が抜けていますが、原文通り「九」だけ表記します。
[6]返り点「一レ」の誤記のように思われますが、原文通り「三」と表記します。
[7](導)」の誤記と思われますが、原文通り「(道)」と表記します。
[8]返り点(縦書き左寄り)「一」の誤記のように思われますが、原文(縦書き右寄り)通り「一」と表記します。
[9]「不」が1つ余分に感じますが、原文通り表記します。
[10]「師」の誤記と思われますが、原文通り「指」と表記します。
[11]「吉」の誤記のように思われますが、原文通り「寺」と表記します。
[12]「十大」の誤記と思われますが、原文通り「十代」と表記します。
[13]醍醐天皇の即位は寛平9年(897)7月13日とされており、本文記載とずれがあります。

更新日:2021/01/22