吉祥院天満宮詳細録 第十章 p351 - 360
|第十章 (11/20)|

○菅公御自刻観音像につきて

天和二年四月十九日より八月十五日迄御当社に於て御開帳、 此時は当村東条西条、北条の三ケ町村之れを司りしが北条町の年寄が人を社家伊予守定次の宅へ遣し置きて其の間に天女御尊像の右脇壇に安置しある菅公御自刻の観音の尊像を何処へか除かしむ、 それが為め此の観音像は行方不明となる種々探索すれども遂に知ることを得ず、 貞享五年戊辰八月社家伊予守定次は責任の罪を恥じ公儀に訟えて事実を談り次に吉祥天女及び天満宮をば菅家五条殿の支配に為ることを願い出しが当時の御奉行前田安芸守は三ケ町中の支配を除き而して願出の意を却下して五条殿並社家伊予守に支配を為すべきことを許されたり、 此事山下音吉氏秘蔵書類に現われたりその文中に 「天和開帳時於[1]天女右脇観音像北町年寄遣人社家之也云々 貞古子[2]五年戍辰八月社家伊予訟干公儀吉祥天女及天満宮為五条殿之支配前田安芸守三ケ村支配而許五条殿並社家伊予為支配云々 云天神作観音有下二[3]三十三体其中左右観音左観音在五条殿之庫右観音在三善院 五月六日使乾吉郎左衛門告伊予旡[4]左右観音 七日社家伊予則乾吉[5]左衛門答可云左右観音儀云々とあり。 右観音は北条町三善院にある如くなれども現今見当たらずと云う、 或説には北野神社へいつしか移りしとも云う。
現今三善院の一部に安置しあるは菅公御年三十七歳元慶五年十月廿一日より四日間当吉祥院に於て父是善卿の遺命により一周忌御追福のため盛大なる法華御八講を行わせ給いしが此時御母公の御遺言ありし十一面観世音の御尊像を御自刻ましまして吉祥院に安置し開眼供養せられし尊像なり。 之れはかの吉祥院法華会願文によりて明かなり最初は吉祥天女院堂前に一の堂宇を建立し之れに安置せしが後世今の所へ移せしものにしていずれは当社吉祥天女院堂前の元の地に移すが至当なり。

○御開帳(江戸表に於て)の立札及願出文の一例を左にあげん。

(一)立札につきて
御開帳立札 総高一丈一尺
御開帳立札板面文
開帳
朱雀帝御作 日本最初
天満宮誕生像神宝等
吉祥天女像 天満宮祖父清公卿 伝教大師 両作
申年従三月廿五日六十日之間本所回向院境内令開帳者也
十一月  京都天満宮御誕生所吉祥院御役人
立札塔所(十八ケ所)
回向院前 両国広小路 浅草雷門前 高輪木[6]木戸 吉原大門前 永代橋 下谷三枚橋 ふき屋町川岸 今川橋 赤坂見付 元飯田町 干[7]住大橋 湯島天神前 四ツ谷大木戸 本所五ツ目役場 本所追分 田町札之辻 江戸橋
(二)御奉行所へ開帳願文の一例
奉願口上書
一 山城国紀伊郡、吉祥院天満宮神主、菅原筑前守奉願上候、 右吉祥院は上古菅相公之祖父清公之領地にして菅相公之別業たり 爰に清公卿入唐の時海上を行して吉祥天女の霊験有しに依て帰朝後平城天皇の御宇大同二年天神之祖父菅原清公卿草創伝教大師開基にて吉祥天女の尊像を安置し号南北山海中寺吉祥院がよりして天下泰平祈願仕来り候 天満天神は朱雀天皇承平四年に吉祥院の西文章院の聖堂に相並て始めて霊魂を被祭依て吉祥院の聖廟と号しかかるより巳[8]来吉祥院の地一式境内たり (又願書の一に曰く「山城国紀伊郡吉祥院神主某奉願上候 右社内勧諸仕候妙音弁才天蝉丸宮吉祥天女別当職私相兼罷在候 吉祥院社地は菅家先祖よりの住宅の地にて御座候」とあり) 其後足利家之時に至る義勝将軍御朱印被下置候天正十八年御朱印被召上唯今の境内事除地も仰付候儀に御座候 以来社殿甚以及破壊罷在候処 後水尾院様 東福門院様御寄付物被成下其外宮方御様家方堂上方よりも御寄付物等にて御修覆被成下候右の由緒に寄当時天満宮御門者東福門院様御茶屋の御門を当社へ御寄付被成下候 且社内に御所司代御下知の御制札等も御建被成候 社柄に候得共何分無碌の社に候者其後段々及大破修覆難行届難渋至極に罷在候 然る処文政七申年出御当地開帳等の儀御免難有奉存候 其砌寄々に者為助或当社妙音弁才天蝉丸宮末流音曲芸道の者説教者と称し旧来有之候講中御座候処近頃は中絶仕罷在候に付右当社信仰の説教者講中其砌取結置候に付猶又此度右講中取締仕度暫時御当地に逗留仕諸堂社造営の助力に仕度存候間何卒右之段御聞済被成下候はば至極難有奉存候 勿論紛敷儀仕候儀にても無御座候間御聞済に相成様偏に奉願上候 以上
城州紀伊郡吉祥院村  吉祥院社神主 石原筑前守
文政十二年丑年四月
寺社 御奉行所』

右の如く天正年間より大なる経済難に陥り菅家の者等及奉仕諸僧も諸方に離散し止むを得ず、御開帳を行い、神社費に当てしが残りて奉仕せる神務石原家は無碌の事とて遂には生活難に襲われ天満宮御年忌以外にも御開帳を行いて諸経費に充当せしものなり。 然る処今より六代前の石原市正菅原定武は歩行速力万人に優れたるを以て特に徳川幕府より抜擢せられ年々二百石の扶持を受くるに至りしより稍々生活に余裕を生じ領土も少々持ちしも後代に至りて亦もや生活難渋となり所有田地を少々宛売却して渡世せしに里人これを見るに忍びず、天満宮御年忌大祭には万灯講を起し又諸方に出でで[9]寄進を勧誘し御開帳の節収めし金を以て御祭典を執行せしなり。 明治維新前徳川幕府大政奉還と同時に諸代名藩籍奉還となり所有地領皆無となりしが明治初年当家近傍御御払下となるや東坊城家が之れを買収せられしを桧垣与左衛門氏及鳥羽重義氏の力添にて之を譲受て稍やく私有田地を得るに至る。 之れを以て社費及生活費に充つつ奉仕し来りしが、社よりの収入皆無、加うるに田地よりの収入も少なく漸時生活難に襲われ私有田地の一部を売却して其日を送り来る。 かかる有様なれば西、北、東条町の者相集り明治二十二年より天満宮へ一度神饌を献供するに玄米五合とし其の一部を神饌費とし余分は社入にし毎年十月十三日に天満宮、及天女院に奉ること即玄米一升を最低として崇敬者の志によりて定めしが三升を以て正月、三月、五月、九月、の二十五日並十月十三日の六度とし、七升以上は毎月廿五日献供する事に定め、又御灯明料も一定し十二月下旬各戸より集収して収入の道開けしも神社経費全部を償うに足らず、明治四十四年より各戸に神饌献供せずに五合以上崇敬の志に寄りて増加する事となる。 例えば一升の家は一升五合となり、三升の家は四升若くは五升となり七升以上の家は八升又は一斗或は一斗二升等となり南条町よりも同じく一升以上志にて献供する事となる。 然るに父石原市之進菅原定宣死亡と共に石原松尾神社兼務慰労米一斗五升は無くなり又野里松尾神社兼務慰労米五升及当村総作中神饌米二斗五升合せて三斗野里町より納りしが基本財産一千円積立上大正四年九月八日御供田処分と共に野里町よりの分は消え当村総作中神饌料は金参円参拾参銭となり次に大正二年より神饌幣帛料金拾五円村役場より納まりしも三大祭の経費に不足を来たせしが之れは其都度氐[10]子より受けしも大正九年より金参拾円に増加せしを以て不足金は生ずるとも徴収せざることとなる。 又当社として神職会費其他臨時取替分も氏子に割当居たり。 然れども社掌として最下級の十二級俸(月参拾円)も表面のみにて全収入は社費に充てしが大正十一年七月当社収支決算を郡長臨験の結果書類と事実との相異甚しきを観破せられ社掌俸級は必ず出費すべしとの命ありしより氏子総代世話方町総代等実地経費の調査を受けしが如何にも事実上収支相償わざること判明し八月二十四日協議の結果十二級俸を支給する事に決し大正十二年より実施せらると同時に以前の全収入を神社直接費に充当し別に金参百六拾円を支出し前年度予算金弐百弐拾弐円六拾四銭五厘を金六百参拾六円五拾壱銭に改めたり。 然るに如何なる都合にや十二月神饌料及御灯明料集収せしが、本年より御灯明料は納めずとの事にて一石九斗五升の内一斗五升余を残して不納となり、前記の当村総作中神饌料も、神職会費及び臨時不足費等の割当出費も自然消滅して収入に減少を来し且つ役場より毎年金百円の補助金も二年間にて後は支給せられず(但昭和三年より村公園監督費として支給さるることとなる)大正十四年度下半期分より南条町の分は今に滞納となり支出の方は年々増加して又もや収支予算も乱れて今日に至る。
[1]このあたりの返り点「」が消えています。
[2]「享」の字を2文字(上下に分割)と誤読されたようです。
[3]ここの返り点「」は明らかに変ですが、「上二」としても「*上二」でやっぱり変。
[4]「无」の誤記と思われますが、これだけ繰り返し出てくるということは正しいのかもしれません。
[5]「郎」が抜けているようですが、原文通り表記します。
[6]「大」の誤記ですが、原文通り表記します。
[7]「千」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[8]「已」の誤記と思われますが、原文通り表記します。「已」と「巳」の区別なしにすべて「巳」と書かれているようです。
[9]「出でゝ(て)」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[10]「氏」の誤記と思われますが、原文通り表記します。

更新日:2023/07/27