京都洛西観音札所再興の由来

柳谷楊谷寺 日下 悌宏

 昭和五十年頃のことであるが、当時西山浄土宗頼松内局で庶務部長をさせていただいていた折、西山国師顕彰事業を森法主の指示によって西山国師十六霊場の開創を西山三派の霊場顕彰委員にして設立させたことがある。 その時現在洛西四番札所、大原野西迎寺の先住長沢慧学師が、先代亮歓師が西の岡三十三所の観音霊場の資料一切を保存しているので、この際再興させてはどうかという提案があった。 そこで早速札所対象の有志寺院に呼びかけ相談したところ、賛同いただき発起人会を発足させることになった。 その当時当山に取材で出入りしていた京都新聞社洛西支局の坂井記者は、札所再興の事業に大いに賛同していただき京都新聞社として関わっていくことを表明してくだされた。 後に出版された『洛西の観音さん』は坂井記者が各札所に歩いて刊行されたものである。

 この札所は室町時代足利義満の世、京の都の官女や武家の女性を中心にして西の岡札所巡りが行なわれたといわれる。 当時桂川以西はまだ都ではなかったから、都の女性にとっては縁者の菩提を弔う巡礼以外に、レジャー的な要素もあったのではないかと思われる。 江戸時代、寛政年間の御詠歌の額を残す札所がみつかったこともあり、泰平の世にはこの札所参りが盛んであったことがうかがわれる。 明治の世になり、廃仏毀釈がおこって、寺院が民の手で壊されるということもあり、この札所にも影響し、すたれていったと思われる。 一世紀の間すたれていた札所が、なんとか昭和五十年再興[1]を見、その後二十年を経て、志を持った札所の新しい住職達の手で記念事業が行なわれようとしていることは、再興当時の発起人の一人として喜ばしいかぎりである。

出所:『らくさい 京都洛西観音霊場札所案内』


[1] 昭和50年(1975)に霊場会が結成され、昭和53年(1978)春に札所が復活しました。