沿革

開創
 霊場の開創時期については室町時代とも江戸時代とも言われていますが、記録がなく正確なところは不明です。
 かつて「西の岡」と呼ばれていた洛西の地域は、京の都から見て西の方角にあたり、西方極楽浄土の連想からか、古くから阿弥陀如来やその脇侍である観世音菩薩への信仰が盛んでした。 恐らく室町時代には都の官女や武家の女性たちを中心にして、西の岡の寺々へ縁者の菩提を弔うための巡礼が行われていたのでしょう。
 ただ現在のような形で札所巡りを行う「西の岡三十三所」の成立は、一般庶民による「西国三十三所」への巡礼が広がり、同時に各地に写し霊場が置かれるようになった江戸時代中期〜後期と考えるのが妥当と思われます。

隆盛
 泰平の世が長く続き庶民の生活にも多少の余裕が生まれた江戸時代後期、『都名所図会』をはじめとする各地の名所図会が続々と刊行され、一般庶民による寺社詣でが盛んに行われるようになりました。
 第二十番・称讃寺には文政10年(1827)、第二十五番・阿弥陀寺には弘化2年(1845)、第二十一番・長福寺には嘉永7年(1854)の日付の奉納額が現存するなど、江戸時代後期の奉納額が洛西の霊場に多く残されていることからも、当時巡礼が盛んだった事がうかがえます。

衰退
 慶応4年(1868)、新政府によって出された神仏分離令(正式には神仏判然令)がきっかけとなって、日本中で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。 この結果、明治時代初期に多くの寺院が廃寺・合併となり、札所巡りも徐々に廃れていきました。

再興
 昭和50年(1975)、現在の第四番札所である西迎寺のご住職の提案から霊場会が結成され、昭和53年(1978)春、「西の岡三十三所」は「洛西観音霊場」(洛西三十三所)として再興されました。 番外の3ヶ寺はこの時に加えられました。
 再興20周年で正式名称が「京都洛西観音霊場」に改められ、さらに平成24年(2012)には札所の変更と追加が行われ、現在に至っています。


● 奉納額

永福寺(長福寺)
 嘉永7年(1854)の額
勝龍寺
 明治17年(1884)の額