江戸時代の初め、戦乱が終わり天下泰平の世の中となって数十年が経過すると、人々の生活に余裕が生まれ、一般庶民の間に娯楽としての名所旧跡巡りが行われるようになります。
明暦4(万治元)年(1658)、最も古い京都の名所案内記として知られる「京童」と「洛陽名所集」が刊行され、寛文5年(1665)には永く廃れていた洛陽三十三観音霊場も復活しました。
さらに安永9年(1780)刊の「都名所図会」が大ヒットし、全国各地の名所図会も続々と出版されて、巡礼が京都だけでなく全国の庶民の娯楽として定着しました。
慶応4年(1868)3月28日、明治維新政府は神仏判然令を出します。
神仏判然令、いわゆる神仏分離令は、文字通り神仏混淆を禁止し寺院と神社を分離するように命じたもので、決して仏教排斥を意図したものではありませんでした。
ところが、神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈した廃仏毀釈運動が、政府の意図を越えて全国に拡大し、残念なことに多くの寺院や仏具が破壊され貴重な仏像や仏画が海外に流出してしまいました。