昭和40年代から各地の写し霊場の再興と新霊場開設が相次ぎましたが、これは下休場由晴[1](しもやすばよしはる)氏と冨永航平氏のご尽力によるものです。 特に関西を中心に活躍された下休場氏の足跡を、柴谷宗叔氏の論文からご紹介します。

『写し霊場と新規霊場開設の実態について』

密教文化 第221号(2008年12月11日発行)
柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員

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 昭和後期から平成にかけ、こうした新霊場開設に尽力したのが、元河内長野市助役で古寺顕彰会を設立した故下休場由晴氏(1927〜2003)と大阪市在住の宗教ジャーナリスト冨永航平氏(1936〜)である。 また、真言系の寺院を中心に七福神、十三仏といった札所は少ないながら複数本尊を回る手軽な巡礼も各地に盛んに開設された。

 昭和四十年代以降の新設霊場については、現段階では学問的にはあまり大きな意味を成さないかもしれない。 ただ、調べていくうち明治から昭和にかけて開設された霊場について、すでに背景ほかがわからなくなっている場合が多いことがわかった。 資料がほとんど残っていないのである。 歴史学的には意味がないということで残されないのである。 寺院あるいは仏具店、観光業者等の金儲けのために作られたという経緯もあるかもしれない。 巡礼者も一時期のみで廃れているという例もある。 実際、平成になってからも京阪、近鉄など電鉄会社がその年限りの沿線の巡礼コースを作って観光客を集めた例がある。

 とはいえ、巡拝した人が居るという事実。 実際何人が回ったかという数値的把握は困難ではあるが、それを事実として書き留めておかねば、歴史に残らないという危機感を持ったのも事実である。 そこで、最近の社会現象として把握するため、昭和後期以降に開設され現在まで続いている霊場について、その典型例を取材した結果を記した。 現時点での調査報告である。

 下休場氏は昭和四十六年の尼寺三十六所巡礼を皮切りに、近畿三十六不動霊場(同五十四年)、西国四十九薬師霊場(平成元年)、近江湖北二十七名刹霊場(同四年)、西国愛染十七霊場(同五年)などの開設を手がけた 。

 尼寺巡礼は、下休場氏と親しい中橋久代さんが夫の家出を悩み尼僧を志し昭和三十年代に尼寺を巡拝。 夫の帰宅、死去を経て、かつて久代さんが回った尼寺巡拝を広げたいという夫の遺志に沿って、当時新西国三十三所観音霊場のガイドブックを執筆していた下休場氏に依頼があり、霊場の組織化を行ったというもので他の霊場とは成り立ちが違う。

 その後はまさに霊場を創設というのがふさわしく、本尊巡礼であれば、その地域の著名な寺をピックアップ、霊場開設を働きかけるといった風で仕掛け人として動いたという。 霊場ができれば古寺顕彰会(のち巡礼顕彰会と改称)で納経帳、掛軸などを作製。 御詠歌のない寺には作ってあげたともいう。

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[1]お名前の漢字は「義治」と「由晴」の2種類があります。古い著書に「義治」の漢字が多いようなので、「義治」が本名で「由晴」はペンネームかもしれません。