神仏霊場
兵庫11番
あこ う おお いし じん じゃ
赤穂大石神社
主祭神
住 所
電 話
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備 考78番

 1701年(元禄14)3月、江戸城中で、播州ばんしゅう赤穂城主・勅使接待役の浅野あさの内匠頭たくみのかみ長矩ながのりが、指南役の高家こうけ筆頭吉良きら上野介こうずけのすけ義央よしひさに切りつけるという騒ぎが起こった。 いわゆる「刃傷松の廊下」とよばれる事件で、長矩は即日切腹。 浅野家は取りつぶしとなる。 それから1年10ヶ月後、1702年(元禄15)12月14日夜、長矩の家臣大石おおいし内蔵助くらのすけ良雄よしたから四十七士が吉良屋敷に討ち入り、主君のうらみを晴らした。
 この一連の話は、忠臣蔵ちゅうしんぐら』として世間でもおなじみの戯曲になる。 江戸時代は、幕府へのはばかりもあり、表立って顕彰できなかったが、1900年(明治33)、神社の創立が許される。 そして、1912年(大正1)11月、義士を追慕する人々からの浄財により、社殿が竣工しゅんこうした。

出所:『神と仏の道を歩く』から抜粋