神仏霊場 兵庫11番 |
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1701年(元禄14)3月、江戸城中で、播州赤穂城主・勅使接待役の浅野内匠頭長矩が、指南役の高家筆頭吉良上野介義央に切りつけるという騒ぎが起こった。
いわゆる「刃傷松の廊下」とよばれる事件で、長矩は即日切腹。
浅野家は取り潰しとなる。
それから1年10ヶ月後、1702年(元禄15)12月14日夜、長矩の家臣大石内蔵助良雄ら四十七士が吉良屋敷に討ち入り、主君の怨みを晴らした。
この一連の話は、『忠臣蔵』として世間でもおなじみの戯曲になる。
江戸時代は、幕府へのはばかりもあり、表立って顕彰できなかったが、1900年(明治33)、神社の創立が許される。
そして、1912年(大正1)11月、義士を追慕する人々からの浄財により、社殿が竣工した。
出所:『神と仏の道を歩く』から抜粋