疋田清兵衛碑 洛陽・方除十二社 安政3年(1856)

 江戸時代の末、今から約160年前の安政3年(1856)に疋田清兵衛[1]という方が奉納された一連のいしぶみです。

 いしぶみ正面に巡礼所の番号と名称、さらに次の巡礼所までの方向と距離が刻まれており、巡礼ガイドになっています。 霊場名は刻まれていませんが、構成から洛陽・方除十二社とみています。

二番 善女龍王
四番 焔魔堂
五番 氏神社
六番 片岡社
七番 地蔵尊
八番 柊社
十二番 大日堂
碑文 所在地
2
【正面】二番 善女龍王大将軍【以下埋没】
廿八丁[2]
神泉苑 善女龍王社
4
【正面】四番 焔魔堂大宮[森]へ
十五丁
引接寺(千本ゑんま堂)
5
【正面】五番 氏神社上加茂へ
八丁
久我神社
6
【正面】六番 片岡社み[曽路へ]
八丁
片岡社
7
【正面】七番 地蔵尊下加茂へ
廿丁[3]
上善寺[4]
8
【正面】八番 柊社河合社[5]【以下埋没】
二丁
比良木社
12
【正面】十二番 大日堂東寺へ
三十六丁
真福寺(大日堂)
共通[6]
【右面】安政三年
丙辰秋
石工九市[7]

【左面】願主 疋田清兵衛
注)[ ]付きは判読困難な推測文字です。
[1]疋田清兵衛の詳細は不明ですが、『京都市姓氏歴史人物大辞典』P555の疋田の項に次の記述があり、この人物の可能性が高いと考えています。 「明治期、東洞院四条に砂糖商の清兵衛、・・・がいる。」
また、同一人物とみられる疋田清兵衛の奉納した狛犬が安井金毘羅宮にあります。 この狛犬は、台座に「安政四歳次丁巳五月建之」とあり、疋田清兵衛碑の翌年に奉納されたものです。
[2]1丁(町)=109.09mなので28丁は約3.1kmに相当します。 これは神泉苑から大将軍八神社までの距離とほぼ一致します。
[3]「五丁」のようにも見えますが、脚注[4]の状況をふまえ「廿丁」と読みました。
[4]深泥池地蔵は、明治初年の神仏分離令によって、上賀茂神社の神領内であった深泥池の西辺(北区上賀茂深泥池町)から神領外の上善寺に遷されました。 いしぶみの年号はそれ以前ですから、深泥池西辺の地蔵堂にあったいしぶみが、地蔵尊像とともに上善寺へ移設されたと推測しています。
[5]いしぶみは見つかっていませんが、「以前には神社の西の入り口から南西の、下鴨本通と御蔭通の交差点にある下鴨神社への入り口を入った辺りの植え込みの前にあったようだ」というWeb情報があります。
[6]左右側面の文字は確認できた範囲ですべて一致していましたので、完全に同一と考えました。
[7]京都市歴史資料館のいしぶみデータベース の「上賀茂へ八丁【道標】」の説明では、「丸市」となっていますが、大日堂他の写真から「九市」と判断しました。

更新日:2016/11/23