吉祥院小百周年記念誌 吉祥院百年のあゆみ

吉祥院学区の歴史と史跡
「天満宮」宮司 石原定和

記念誌発行に際し、乞われるまゝに拙文を寄せる事になりましたが、種々不完全の点お許し下さい。

(一) 「吉祥院」の地名の起源

桓武天皇が延暦十三年(七九四)都を平城京より長岡を経て、平安京(京都)に遷された時、菅公の曽祖父古人ふるんど(学者)、祖父清公きよとも(政治家)等供奉し来り、帝より大内裏に近い南西に広大な地を賜り、大和やまとの「菅原の庄」より六ツ田家(姓に田のつく六家)始め一族郎党と共に移り住むことになった。 当時は未開発で桂川の下流域に在るため水害の機会も多く、地名も「石原の庄」「石原郷」と呼び、上、中、下に分けられ、中石原を「白井の庄」とも云った。 菅原家は、この概ね中央部に当る所に本邸を構え、一族それぞれ小高い所に分散居住し、東條、西條、南條、北條の四地域に分け、先住人と共に、主に農業を営んだ。 吉祥院に「石原」及び「田」のつく姓の割合に多いのはこの故で、血縁に無関係の場合もある。

延暦二十二年(八〇四)七月、清公卿が遣唐使として渡唐の際海難に遭遇し、同船の伝教大師と共に「吉祥天女」に平安を祈られ、無事帰朝後加護を謝し、吉祥天女の尊像(現存)を自ら刻み、大師と議り、大同三年(八〇八)本邸内に一堂を建立安置して、「吉祥院」と名づけられて後、菅原家を「吉祥院様」と通称するようになり、地名もいつしか吉祥院郷等と呼ぶようになった。 これが村名の起源で、尚古記録に、石原郷、石原邑、菅原郷、菅原院邑、吉祥院邑等の名でも出て来る。

(二) 当地と菅原道眞みちざね

是善これよし卿(父)は、邸内に文書院聖堂(学問所)を設け、朝廷出仕の傍ら子弟を教育された。 (学校の草分けか)菅公は承和十二年(八三五)六月二十五日に誕生、此の地で学問に励まれ、十八才で文章生(上級官吏登用試験相当)に合格後は、御所仕えの都合で上屋敷(後の紅梅殿)に移住されたが、三十六才の時父君が死去せられたので以後は当地より通われた。

当時御愛用の「牛のくら」は、神社の宝物として遺り、現在東京国立博物館に委託鄭重に保管中で、同類のものは我国で二鞍有るのみと聞く。 寛平六年(八九四)九月二十五日に、五十歳の賀を当地で行われたことは有名で、菅公在世中の特筆すべき盛大行事であった。

醍醐天皇延喜元年正月二十五日太宰権師に左遷が決り、桂川西岸古川(今の久我)より乗船西下せられたが、其の節当地に残された夫人に「君が住む宿の梢の行々も、かくるゝまでにかへり見しは や」と詠まれたので、後に別名「みかえりの森」とも云った。 残念ながら千年に余る老樹や其他大木も昭和九年の室戸台風で殆んど倒れ、今は昔の面影が全く無い。

延喜三年(九〇三)二月二十五日に五十八歳で薨去、太宰府安楽寺に葬られたが、其後京は荒れ、災厄多いため、日蔵上人笙の岩屋にこもり、天神より「若し人我形を作り、我名を唱えて尊重せば其 人を護らん」との神託を受け、朱雀天皇に奏上し、菅公歿後三十一年目の承平四年(九三四)に、本邸内に社殿を建立、御幼少像を刻み、天満官として勅祀されたのが神社の創りである。 後、菅家領の大部分の神領とし、秀吉と争い奪われるまで続いた。 当時迄菅原家を長に六ツ田家(安田、神田、福田、奥田、岩田、寺田)及藪田、石原、恩田家等が神明に奉仕していた。 現在も「天満宮」が本名で「吉祥院天満官」は通称である。 尚二十五日は菅公と縁り深い日であることがわかる。

(三) 史跡、町名等について

過去の歴史に繋る史跡、町名、地名等数多く有りますが、紙面の都合で省略し一部記述に止めます。

◆「天神川」上流を紙屋川、吉祥院領に入って天神川、昔は水清く豊富で、魚貝類数多住み、漁師舟も浮んでいた。 近年になって西高瀬川と変名されたのは歴史無視で惜しい。
◆「御幸みゆき橋」鳥羽帝が行幸の砌又勅使参向の際渡られた正面橋跡。
◆「六田のもり」或は「音きゝの杜」菅公に秋の虫の音を聞いて貰うために六田家等が虫を集め来り放った地の遺跡で、神社東方約百米の所。
◆「硯の井」跡、神社より東約三百米の所に在る。(説明は過去に記述済)
◆「かがみの井」跡、境内に在り、菅公参朝の節、姿を写された井戸、江戸時代の著名書家「葛鳥石」銘文の石碑が建っている。(宝暦四年
◆「古人郷[1]墓所」神社より約六百米南西に在り、菅原墓とも云い使用中。
◆「清公郷[1]墓所」跡、神社より南東方約五百米の所に小面積で残る。
◆「是善郷[1]墓碑」神社より約二百米南の香泉寺庭内に遺る。
◆「政所町」菅公夫人「北政所」が居住せられた土地縁による。
◆「御池町」邸内北寄に大池あり、後に御池みいけ跡と呼んだ地名から出た。

以上で一応終りますが、尚江戸時代から明治年間迄、現吉祥院学区内での小村分立、合併統合等の歴史、町名地名の発祥等研究に価するもの数多く有ることを追記し諸賢の調査を期待します。

[1]「卿」の誤植と思われますが、原文通り「郷」と表記します。

更新日:2020/11/14