吉祥院小百周年記念誌 吉祥院百年のあゆみ

吉祥院百年その沿革

≪前略≫

豊臣秀吉全国の地租を検地 山城の紀伊郡

天正十七年、豊臣秀吉全国の田租地を検するに及び米穀を以ってこれを算し、石高と称した。 天正年間「山城」の石高は、廿二万九千五百石余にしてこれを八郡に分ち石高左の通りである。

[1]治 二万四千七百三十石余
久世 二万二千三百九十石余
綴喜 二万八千六百六十石余
相楽 三万七千五百九十石余
乙訓 二万五千八百五十石余
愛宕 二万六千四百九十石余
葛野 三万九千四十石余
紀伊 二万四千七百三十石余

紀伊郡は、伏見、柳原の二ヵ町、堀内、向島、深草、東九条、吉祥院、上鳥羽、下鳥羽、竹田、横大路、納所の十ヵ村を管轄し、戸数一万三千二百七十八、人口七万八百九十八人を有した。

京都府紀伊郡吉祥院村

吉祥院は紀伊郡の西北端に位置し、東は葛野郡七条村並に紀伊郡上鳥羽村に接し、西は桂川を隔てゝ葛野郡川岡村、乙訓郡久世村に対し、南は上鳥羽村字塔の森、北は葛野郡京極村に接して東西十四丁南北三十三丁、戸数四百三十、人口二千四百六十四、村役場小学校は小字船戸にあった。

東海道線路は吉祥院の東より西に貫通し、西国街道は東より西に通過し本村を二分している。 桂川は西部を南流して村界を画し、天神川は東部を流れて灌漑に便がある。 田二百六十三丁、畑十六丁八反、村民の生業は農を主とし、稲作蔬菜栽培をなすものであるが、本村に於ける耕地面積の広きことは郡内第一にして土地肥沃なりといえども再々桂川の洪水の為水害を被る事甚だしかった。

徳川氏執政中は京都東、西町奉行の支配に属したが、明治四年廃藩置県と共に京都府の管轄となり紀伊郡第四区となる。

西中村は、明治七年五月西の庄村と中川原村が合併して西中村と称するに至った。 文禄の頃には福地三河守の領地であって、居城の地であったという。 現に中の門、西の門、馬場等の名称を遺す。

石嶋村は、明治七年五月、石原、嶋の両村合併して石嶋村と改称した。

新田村、正徳元年一月、京都所司代板倉防州守の命を受けて、吉祥院の住人九兵衛外五名等が、協力して、桂川の流域の一部を開拓し、耕地十数丁を得て吉祥院村字向川原と称した。 これ新田村のはじまりであって、享保六年に制札下附せられ新田村として独立するに至った。 俗に世間ではこれを鳥羽新田に対して吉祥院新田と呼んだ。 石高百八石、かくして百数十年間独立していたが、明治七年に吉祥院村に合併した。

明治十三年西中、石嶋、上鳥羽、塔の森と五村連合役場を設けたがその後再々改廃され、十七年七月西中、石嶋と三村連合役場となり、廿二年町村制発布せられその施行により三村合併して、吉祥院村と改称し、村役場を吉祥院村字船戸に置き村長を選して、昭和六年三月まで村長為政の下に四十二年を経過したのである。 三月卅一日その村制を廃し、四月一日より京都市に編入せられたのである。

京都市編入の動機

本村は京都市の西南の地に位し地勢平坦にして市と背中合せに近接し、運輸の便に富み最も恰好の工業地域である。 先に奥村電機商会、(今の日本電池附近)桂川染工株式会社(今の日本繊維の場所)等の工場の設立ありて以来、漸時工場の移転し来たるもの多く、殊に区画整理完成、市営電車敷設(九条通、西大路通の事)の暁きは工業地又は商業地、住宅地として急激なる発展を遂ぐべくは予想するに難からざる所である。

茲にすみやかに京都市と合併して今より道路その他の計画を樹立し、以って将来に備へ、社会的施設等、都市的設備の完成を期するは時勢に順応する所以であって市、村拾問の福利を増進するに至るものである。 一面、貧弱なる弾力性なき村財政を以ってしては学校、道路、下水、其の他交通、衛生消防等の施設経営等の充実完備は到底不可能であると思われる。

故に本村は茲に於いて、かねてより京都市に合併の希望を有し、合併の利害得失等つき、各地の視察調査を怠らず、村当局に於いて合併を利とするに意見の一致を見るに至りかってこれが促進を知事、市長に陳情したほどであったが、愈々時期到来し昭和六年四月一日、即ち本府三部経済制度の撤廃せられたると同時に、一市三町二十三ヵ村と共に京都市に編入さるゝに至ったのである。 現在に於て戸数千二百、人口五千六百を超ゆるに至れり。 (吉祥院村公報)

菅家譜代の領地

吉祥院は、さきに地名起源の項で述べた如く、菅原清公卿が領有せられてから菅原家譜代の領地として総て菅家の配下にあった事は疑う余地もなく、菅公筑柴[2]に左遷の後は、吉祥院(前述)及び天満宮の社領となりしが、同宮司は菅家の後裔世襲奉仕しつゝある。

信長の没収、秀吉分配 (維新前領主、七十二)

永禄の頃から織田信長の勢力とみに加わって、今川義元を桶狭間に討って以来、度々の合戦で連戦連勝して元亀元年には京都に入り皇居を造営し、その威海内に振った。 然るに比叡山の僧徒従はず、同二年九月信長は叡山を討った。 此の時比叡山三千坊と称せられ皇城鎮護を誇った多数の寺院は焼き払われた。 この時吉祥院は、伝教大師(最澄さま)を開墓[3]第一世と仰ぐ関係もあり、且天台宗に属して、叡山とは不離の関係がある所から当時の宮司某は織田信長の命にそむき比叡山延暦寺の僧徒に組したるの故を以って、信長の激憤を買い、遂に其の社領を没収せられしと伝えられる。 後慶長年間秀吉これを五十九家に分配し、(注)参照 西中、石嶋を合して領主たるもの七十二あり。 そして維新前まで三百余年相続したもので、維新当時には吉祥院の総石高は三千二百九十五石四斗一升八合であったという。

(注)豊臣秀吉がお土居をきずき洛中洛外の区画整理事業をやった時お寺ばかり集めて寺町をつくった時、その用地の地主に見返りとして吉祥院の社領が分配されたといわれる。

≪後略≫

[1]「宇」の誤植ですが、原文通り「守」と表記します。
[2]「紫」の誤植ですが、原文通り「柴」と表記します。
[3]「基」の誤植ですが、原文通り「墓」と表記します。

更新日:2020/11/14