吉祥院天満宮詳細録 第九章 p247 - 253
|第九章 (2/7)|
(一五)為記 干中
延徳元年十一月十九日吉祥院相撲会、長者父子同予参向、廿日吉祥院御八講、導師花園被参』 とありて、前項の如く十五日には氏長者人の参拝あり 同十九日には大相撲会あり 引き続きて廿日には御八講行われしなり。
(一六)皇室との関係の章に記載せしと雖も武将、儒者、僧侶及諸名士の参拝数しれざりし際なれば再び載せて参考とす、但し
和長記及二水記 干中
大永二年十一月廿二日早旦菅大納言(坊城)長者拝堂出仕見物也 行粧美麗也 路次様云々 先詣吉祥院被詣北野社云々』
大永五年八月廿八日食後詣御霊社今月三月結願也 午後詣北野社云々』
大永六年十一月廿一日早旦内侍所食後詣御霊、北野社等午刻参伏見殿云々』
大永七年三月一日云々 詣御霊社北野社中院姉小路[1]等同道也』
享禄三年庚寅九月七日早旦詣御霊、北野社堂五辻同道也』
(一七)菅家後裔唐橋大納言は大乗妙典一部(八巻)を奉納し給ふ。
(一八)同唐橋式部大輔在良卿は天満宮御神号を自筆して奉納。
(一九)吉祥院天満宮古記録 干中
天正八年十八年とも記す)豊臣秀吉将軍となるや其の臣、秀吉公の威光を籍りて当社境内に於て制札の遵不遵のことより神領の民との間に感情の衝突ありしが其の臣悪し様に告げしか秀吉の勘気を蒙り俄に令して神領二千石、御朱印七百石、御八講料三百石及び加賀二庄をも、ことごとく取り上らる。 而してこれを北野神社の方へ移されしを以て当社は地に落ちし姿となり、北野社は天にも昇る勢を示せりと言い伝う。

されば此時代迄は社殿堂宇の造営も完備し現今北野神社の如く八ツ棟造の御宝殿にて境内も広く天神川の流には二重の神橋を架し皆結構荘厳たり、当社宝物の元和以前の古境内の絵図を見ても明かなり。 かかる有様なれば朝臣武士都鄙の人も菅公の御徳を仰慕して当社に詣づる者陸続として踵を接し御年忌の如きは実に盛大に執行され北野社に勝る御神威は日月と共に照々なりき。 然るに些少事よりかくなりければそれ以来社殿堂宇の破壊衰頽するも坐視するのみにて如何ともすること能わず年々の祭典も昔の盛典を夢に見て僅に式を挙ぐるの名のみとなり漸時規模を縮めて僅に御霊跡を残存せしのみとなる斯る有様なれば菅家、社人等も数十家相続し来りしも此時より漸時離散し残りて奉仕せるは只当石原家のみにて世襲たり又吉祥天女院別当職を兼ね今に至りしなり。 石原家は元菅家の後裔にて菅家の姓なれど菅神に畏ければ中昔より在世中は此の地の旧名を採りて石原と改姓す。 此の現状を見たる神領の者は早晩天神の崇[2]やあらんと申す者もありしが其後秀吉公の御盛時も短かく御子孫惨滅の有様を見て天罰のしからしめしものならんといい合いし者もありきとかや。

菅公の子孫は現今四方に多々あれども特に世に顕われたもう重なる人を挙ぐれば高辻家、五条家、東坊城家、清岡家、唐橋家、桑原家、前田家、松平家、柳生家等なりこれ皆文武の道を以てひたすら大君を思い御国の為めに尽したまいしところにして何れも高位高官たり。

吉祥天女院は前記の如く吉祥天院満宮[3]と離るべからざる関係を有し不浄事に本堂を使用せしこと全く無く菅神に奉仕すると同様なるも明治維新後神仏混交を廃せられしより名目のみ北条町三善院に属すと雖も一時的のものにして矢張以前と異なることなく本社に使用する浄器物も本堂に収め日毎年毎の神饌、献灯、祭礼及氏子より奉る神供も本社と異なることなく今日に及ぶ。

現今の社殿は元和四年再建造営正遷宮を行いしものなり。

本社前唐門は東福門院殿の御寄進にして規模を縮めて今に存す。[4]
○近畿歴覧記(里川[5]道祐元禄二年十一月没) 干中
『是より吉祥院村に至る、高二千石の所なり云々 凡そ此村に天神被官の士七十三家あり云々 右七十三家の内薮田、石原、恩田、交々社務職を勤む、其の次社家ナミ十家安田、福田、神田、等是也 其の余も神職を勤む、吉祥院村二千石悉く神領たり、其の内七反田御供田なり。 秀吉公の時社務勘気を蒙り神領不残被没収故に七十三家も多くは武家へ奉公せり。 菅原氏自天神六代目定義に子三人あり嫡子は菅原二男唐橋三男石原此の二十四代の末河内の今の社務なり、東の馬場、昔は正月七日禁裏の女中交々参詣、車二両行通ほとの街ときこゆ、今は社頭零落雨漏地湿不感歎云々』
(二〇)吉祥院天満宮古記録 干中
天和弐年壬戊[6]卯月十八日東坊城大納言殿より奉納。
一、御戸帳 二、御翠簾 三、御三方
四、御案  五、烏帽子、狩衣石原伊予守へ拝領
(二一)同前 干中
貞享五年辰七月十日東坊城大納言殿より
一、石の手水鉢御寄進
(二二)同前 干中
元禄四年四月十二日天満宮社大修繕終り上遷宮、四つ過に首尾能く相済引続き六月三日迄宝物御開帳其中六月一日より三日間大般若経を奉納す其節の奉納品。
一、清岡様より  銀百七十目奉納
二、修禅院様より 白米二石一斗七升奉納
三、所百姓中より 銀九百三十三匁六分奉納
四、岸之坊様より 米一石九斗五升奉納
五、御酒、御米、御神楽、御湯、御鏡餅、御油、御撫物、御灯明等を参拝して奉納されし方々の一部を記はば[7]左の如し。
五条殿、清岡殿、東坊城殿、東寺観珍院[8]僧正殿弟子中将殿、北野松梅院御弟子殿、高辻殿、平尾殿、織部殿、烏丸殿、桑名正雲殿、松橋殿、醍醐丸殿、内裏一条殿御内儀御家来殿、日野殿、代官萓野藤右衛門殿、伏見岡田豈前[9]殿御家来殿、上醍醐慈籠殿、菅原中納言殿等参拝者夥し。
(二三)中務大輔菅原長時卿より御神鏡三個奉納。
(二四)金原仙龔子より天神地祀祓四神号を自筆し軸三幅として奉納。
[1]返り点「」は不要な気がしますが、原文通り表記します。
[2]「祟」の誤記と思われますが、原文通り「崇」と表記します。
[3]「吉祥(祥)院天満(滿)宮」の誤記ですが、原文通り表記します。
[4]残念ながら今はありません。
[5]「黒川」の誤記のようですが、原文通り表記します。
[6]「壬戌」の誤記ですが、原文通り表記します。
[7]「記さば」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[8]「観(觀)智院」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[9]「豊前」の誤記と思われますが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/09