吉祥院天満宮詳細録 第十章 | p316 - 323 |
|第十章 (6/20)| |
△昭和三年八月十日十一日大阪朝日新聞紙上の盆踊りなどを訪ねての中に
『吉祥院村六斎念仏太鼓。起原はふるく空也上人の鉢叩き(松尾明神も仲間入りすると、[1]ても愉快な六斎念仏)
六斎念仏の、六斎というのは仏教徒が勤慎を表すべき日、八、十四、十五、廿三、廿九、晦日の各日を意味している、
この六斎念仏の起原ははっきりとは判らぬがまず空也念仏の変化したものであって、空也上人の鉢叩きが後世六斎念仏になったものだろうというのが最も有力な説であって、これがそうだとすれば空也上人は醍醐天皇第二皇子寛平法皇の御孫也。
延喜三年誕生、天禄三年九月十一日寂、寿七十と空也上人絵詞伝には書いてあるから少くとも九百年の昔からあったわけになる。
此空也上人絵詞伝のいうところによると六斎念仏の起源はまずこうである『上人雲林院(紫野)に住わせたまいけるが十月ごろ大宮の大路を南へ念仏唱え逍い給いけるに途中に白髪の老翁寒愁の気にて『空也上人は不思議に思い何者ぞと問い給えばこれはまた意外「是は松尾明神といい侍る神なり」衆生済度のため本覚真如の妙体をわすれこの国に跡をたれて以来それはいろいろと財施の食綾羅の衣を手向けてくれる人はあるけれども、そのくれる人が真に法の道をわきまえておらず、真実の法施を捧ぐる人でないばかりだからもらいたくない、だから「妄想顛倒の嵐は衣裏に烈し、悪業煩悩の霜は烏瑟の髻殊に厚し」と松尾明神は答えた、
それはまことにお気の毒なことだ。
わしの衣はこれで行住座臥、四十四年の間法華をよんできた衣だからその衣には「妙香薫じて皆衣そむる也」これならお気に召すでしょうと上人は自分が着ていた衣を松尾明神に脱いで与えた。
明神さんはおかげで苦しみをのがれ温くもなった。
松尾へ帰りたいからここでお別れする、いずれお待ちしているからとて「御姿かきけすように見えたまわず」
舞台は大宮通りから松尾へと移る、約束通り空也上人が松尾神社に出かけてみると、明神さんが姿をあらわし、よく来なさったというわけ。
ここで明神と空也上人との間に師弟関係が成立、もろともに手をとりあって念仏を唱うること数次、かんたん相照し、明神のよろこびはひと方ではない、そして明神さんの仰せにはこの鰐口と太鼓をお布施としてあげるから末世の衆生を済度していただき度い。
及ばずながら守護してあげようというて内陣に入らせ給う。
上人のよろこびは大したものだつた、これに力を得て国々在所々々を廻つて毎月斎日ごとに太鼓鐘をたたいて念仏を唱え衆生済度に努力した「これによって俗呼びて六斎念仏といい伝えたり」とある。
筆者はことしはじめて京都大学の記念日に出席しての六斎念仏を拝見した。
その時は六斎念仏などというからさだめししめっぼいものかと想像していたことをすつかり裏ぎられてこいつはコミカルな愉快至極なものだと酒をなめずりながらゲラゲラ笑いながらたかをくくってしまった次第であったが、いまいわれるのを聞いてみると、どうしてどうしてあるいは天の岩戸のお神楽説があり神仏混合説があり、それがどうもあいまいだといえば、こんどは松尾明神さんがそのいわれの中にとびこんだりしてくる。
かしこみかしこんで書くことも書きつづけねばなるまい。
花の都のさし踊の項にも下鴨在の念仏踊はこの六斎念仏のことではあるまいかと書いておいたが今でこそ六斎念仏は紀伊郡吉祥院村の一手販売になっているようだが、一時槙村という西洋崇拝の京都府知事がいた時代、青年の六斎念仏を禁じたことはあるにはあったが、明治十二三年ごろから再興して盛んに行われるやうになり最近まで桂、西院、上鳥羽、川岡、久世村等に残っていただんだんほろびてしまった。
桂村の如きは二十年前コレラが流行して、踊の幹部がすっかり死んでしまって根だえした。
そのコレラの原因を聞いてみると葬式の折詰が腐っていた結果だとのこと、踊の起りも仏に関係があることならその絶滅も仏に因縁がある。
何分信心だけは肝要だというような気がする、
吉祥院村には十二の部落があって現在ではわずかに五部落にしかこの念仏踊が保存されていないまず青年といっても十五歳から三十五歳くらいまでの人たちによって演ぜられ、十五歳にしてこの組に這入ったものは最初茶番といって芝居でいえば草履とりみたいな役をやらせられる、茶番はまた当り役ともいう。
ところでいくら衰微しつつあるものにしたところで吉祥院天満宮を中心としてその東西南北にあたる四部落即ち北条、南条、東条[2]の四組は天満宮が存在する以上これを保存してゆかなければならぬ、なんとなれば、この天満宮さまに六斎念仏を奉納することは昔からのしきたりであり、どうしてもこれをかかすことがならぬようになっているからだそうだ。(無通庵生)=写真は六斎念仏の「和唐内」
踊手には今でも空也堂の免許証(都市に供給されるためにさびれる六斎念仏)
この六斎念仏は、よく法会の際に行われ定期的なものとしては盆の十五、十六日及地蔵盆の前後が最も盛んに行われ十五、十六日ごろは主として京都に出てやる。
八月二十五日に六斎をうつのが天満宮の奉納踊でこの村ではその翌晩の大踊りといってそれは主として江州音頭によってとても大変な踊が出来る、この踊のためには大抵の村出身者が集る。
法会の場合出演するというても一般の法会のみでなくこの村の六斎念仏は、孝明天皇御四十九院御焼香勤行にも奉仕しているし英照皇太后尊儀御焼香式にも供奉申しつかっている。
慶応三卯二月十七日、洛西吉祥院村六斎念仏講中に本山空也堂極楽院から出した免状の事にはこう書いてある、
菊御紋付箔押太鼓金紋二つ、銀紋二つ、 右者今般孝明天皇御四十九院御焼香勤行の節相用候に付永世什物に備置法要の節大切に取用申の旨令免許候事
思うに空也上人に始まった六斎念仏だというのでその元締は空也堂にありとし、踊手には今でも空也堂から免許証を出している。
昔は八月大名といって八月に入ると農家はその仕事の整理が一段落ついてまず一休みというわけで、吉祥院村でも専門に若者組の連中は六斎念仏の練習にとりかかったのであるが、平塚村長の話によるとこのごろは蔬菜が京都市に出るようになってどうしても農家は八月大名どころの騒ぎでなく、菜園仕事に追われ勝ちである。
だから一方からいえばこの都市に供給せらるべき野菜のために六斎念仏がさびれてゆくともいえよう。
ところが皮肉にも六斎太鼓念仏の中には「青物づくし」という曲目があってまるで青物市場にいったような気がする、時節がら清新の気を養わんがためその文句を左に御紹介する、まず笛がなって唄が始まる、
あさ瓜、かも瓜、小芋、芋頭、イーャじねん薯、豆の葉、うみほうづき、柘榴、まるめる、柿桃、栗、枇杷、ちさ、葡萄、ほうづき、茗荷に蕗の葉、ハツ、つくね芋、さつま薯、なかぬき蕪に、つるし柿、ほうきぎ、松茸、小莢、なめたけ、はつたけ、くろかわ、ぬのびき、人参、くわゐに蜜柑、こうじ、よめの葉に、だい/\、とうがらし、空豆、青豆、大刀豆、みそ豆、に豆にハツ、白豌豆、黒豆、小豆や、ち草、なんばきびトコトン、
まだいくらでも出てくる。
茄子に、辛子漬、たんぼに、芹、つくづくしに、牛蒡、ぬかごくねんぼ、きんかん、つぶ椎茸乾蕪に新はじかめ、梅干、筍、ぜんまい、りんご、ごみ、てんぼなし、南瓜、胡瓜やまくわ、りょうあんじ、さんしょ、水くらげ、西瓜、黄西瓜、きりうりか、無花果。にんにく、にらや新しょうがに、わさび、かんぴょう、なつめ、十八ささげ、かや、かちぐり、ほんだわら、よごみ、しょうぶ、水菜、ほうれん草や、葉人参、赤大根、葱、わけぎ、あさづけ、菊菜に、松菜に、はこべや、山牛蒡、つまみ、かいわりな、ひよそば、とうきび、たかのつめに、をの実にくるみ、いば梨、いちご、山の芋、しなの梅ヨイ、小梅ヨイ、
これは豆太鼓六人、大太鼓一人、小太鼓一人、鉦(二丁ずり)一人、笛三人、合計十二名の地方でうたっているのだから、そのつもりでよんで下さいよ、
はじそう、みつば、長茄子、しょうず、白あづき、江戸ささぎ、畑芹、ねじ大根、切干、守口丸切、千切、ちりめんうど、蓮、すももにらっきょに、百合根に山桃、ぼけ、
書いている方もつらいが、よんで行く方も相当つらいだろうと思います。
まだある、
イーャ見ごとな見ごとな柚に尾張大根、近江かぶらや、のびる、たいまつごんぼ、いなだもも、青とうがらし、
このほかに組によっていろいろだが「猿廻」獅子太鼓、頼光、和唐内、祇園囃子、三恋慕、八島玉川、などあって念仏は一種の芸をおび来り、更に茶番狂言、本行係の技芸を行うことになっているが、これらの曲目をやる前に必ず「発願」というて念仏を鉦四、太鼓八人もしくは十人で、いはば打合せ、芝居でいえば三番叟をやる、それは、
ホーツーガーァ………ンージ、シーシーンーキーミヨーォ……ナーァ……ブーウーナーンメンナーァ……ナーァ……ンブウー。
アミダーンブウツ、ナムマイダナムマイダとこうとなえるのです
またこれらの盆踊のほかに土地々々によつて異色ある踊がいろいろとあるたろうがこれ位でひとまず打ちきりとする。
アナカルシス。クルウツという人がこんなことを書いている
吾々の農民には、吾々を招いて古い樫の木の下で田舎踊を踊らせる。
かの自然の外の他の芝居は要らない、読んだり、書いたり、勘定したりするのは、教育の仕事だ、芝居には歓喜とヴイオロンとあればいい
それはそうかも知れない都会の人間がいたずらにわかりもしない音楽や、芝居を辛棒しながらみたりきいたりしてそれでもって都会文化を誇っているうちに、農村の人たちは盆踊りで年に一度の歓喜をこころゆくまで味わう、もしかしたら、この方がよっぽど面白いことなのかも知れない
それでは盆も近づきました、しかるべく踊られたがいいでしょう。
写真は六斎念仏の祇園囃子』
京都帝国大学記念日に当村六斎念仏太鼓を見せしより学者等より古風芸術の今日迄で存続せるは実に珍重なり大学に於ても年中行事の一に加えしを以て毎年是非御苦労になりたしとの事これ全く安田英之助氏等の吉祥院村として絶すべからざる古風保存に尽力せられしたまものなり。
昭和三年十一月、全国青年団連合大会並全国処女会連合大会が共に京都に開催されしが特別の依頼を受けて六斎念仏太鼓に出演せしが驚歎の眼を光らし、賞讃此上なかりき。
[1] | 「、と」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
---|---|
[2] | 「西条」の記載漏れと思われます。 |
更新日:2021/02/10