○菅公御自刻觀音像につきて
天和二年四月十九日より八月十五日迄御當社に於て御開帳、
此時は當村東條西條、北條の三ケ町村之れを司りしが北條町の年寄が人を社家伊豫守定次の宅へ遣し置きて其の間に天女御尊像の右脇壇に安置しある菅公御自刻の觀音の尊像を何處へか除かしむ、
それが爲め此の觀音像は行方不明となる種々探索すれども遂に知ることを得ず、
貞享五年戊辰八月社家伊豫守定次は責任の罪を恥ぢ公儀に訟へて事實を談り次に吉祥天女及び天滿宮をば菅家五條殿の支配に爲ることを願ひ出しが當時の御奉行前田安藝守は三ケ町中の支配を除き而して願出の意を却下して五條殿幷社家伊豫守に支配を爲すべきことを許されたり、
此事山下音吉氏秘藏書類に現はれたりその文中に
「天和開帳時於[1]天女右脇一置三觀音像北町年寄遣二人社家一令レ除レ之也云々
貞古子[2]五年戍辰八月社家伊豫訟二干公儀一申三吉祥天女及天滿宮爲二五條殿之支配一前田安藝守除二三ケ村支配一而許三五條殿幷社家伊豫爲二支配一云々
云下天神作觀音有下二[3]三十三體一其中左右觀音左觀音在二五條殿之庫一右觀音在二三善院一
五月六日使四乾吉郞左衛門吿三伊豫旡[4]二左右觀音一
七日社家伊豫則乾吉[5]左衛門答レ不レ可云二左右觀音儀一云々とあり。
右觀音は北條町三善院にある如くなれども現今見當たらずと云ふ、
或說には北野神社へいつしか移りしとも云ふ。
現今三善院の一部に安置しあるは菅公御年三十七歲元慶五年十月廿一日より四日間當吉祥院に於て父是善卿の遺命により一周忌御追福のため盛大なる法華御八講を行はせ給ひしが此時御母公の御遺言ありし十一面觀世音の御尊像を御自刻まし/\て吉祥院に安置し開眼供養せられし尊像なり。
之れはかの吉祥院法華會願文によりて明かなり最初は吉祥天女院堂前に一の堂宇を建立し之れに安置せしが後世今の所へ移せしものにしていづれは當社吉祥天女院堂前の元の地に移すが至當なり。
○御開帳(江戶表に於て)の立札及願出文の一例を左にあげん。
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(一)立札につきて
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御開帳立札 惣高一丈一尺
御開帳立札板面文
開帳
朱雀帝御作 日本最初
天滿宮誕生像幷神寳等
吉祥天女像 天滿宮祖父淸公卿 傳敎大師 兩作
來申年從三月廿五日六十日之間本所回向院境內令開帳者也
未十一月 京都天滿宮御誕生所吉祥院御役人
立札塔所(十八ケ所)
回向院前 兩國廣小路 淺草雷門前 高輪木[6]木戶 吉原大門前 永代橋 下谷三枚橋 ふき屋町川岸 今川橋 赤坂見付 元飯田町 干[7]住大橋 湯島天神前 四ツ谷大木戶 本所五ツ目役塲 本所追分 田町札之辻 江戶橋
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(二)御奉行所へ開帳願文の一例
奉願口上書
一 山城國紀伊郡、吉祥院天滿宮神主、菅原筑前守奉願上候、
右吉祥院は上古菅相公之祖父淸公之領地にして菅相公之別業たり
爰に淸公卿入唐の時海上を行して吉祥天女の靈驗有しに依て歸朝後平城天皇の御宇大同二年天神之祖父菅原淸公卿草創傳敎大師開基にて吉祥天女の尊像を安置し號南北山海中寺吉祥院が夫[8]よりして天下泰平祈願仕來り候
天滿天神は朱雀天皇承平四年に吉祥院の西文章院の聖堂に相並て始めて靈魂を被祭依て吉祥院の聖廟と號しかゝるより巳[9]來吉祥院の地一式境內たり
(又願書の一に曰く「山城國紀伊郡吉祥院神主某奉願上候
右社內勸諸仕候妙音辨才天幷蟬丸宮吉祥天女別當職私相兼罷在候
吉祥院社地は菅家先祖よりの住宅の地にて御座候」とあり)
其後足利家之時に至る義勝將軍御朱印被下置候天正十八年御朱印被召上唯今の境內事除地も仰付候儀に御座候
以來社殿甚以及破壞罷在候處 後水尾院樣 東福門院樣御寄附物被成下其外宮方御樣家方堂上方よりも御寄附物等にて御修覆被成下候右の由緖に寄當時天滿宮御門者東福門院樣御茶屋の御門を當社へ御寄附被成下候
且社內に御所司代御下知の御制札等も御建被成候
社柄に候得共何分無碌の社に候者其後段々及大破修覆難行屆難澁至極に罷在候
然る處文政七申年出御當地開帳等の儀御免難有奉存候
其砌寄々に者爲助或當社妙音辨才天蟬丸宮末流音曲藝道の者說敎者と稱し舊來有之候講中御座候處近頃は中絕仕罷在候に付右當社信仰の說敎者講中其砌取結置候に付猶又此度右講中取締仕度暫時御當地に逗留仕諸堂社造營の助力に仕度存候間何卒右之段御聞濟被成下候はば至極難有奉存候
勿論紛敷儀仕候儀にても無御座候間御聞濟に相成樣偏に奉願上候 以上
城州紀伊郡吉祥院村 吉祥院社神主 石原筑前守
文政十二年丑年四月
寺社 御奉行所』
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右の如く天正年間より大なる經濟難に陷り菅家の者等及奉仕諸僧も諸方に離散し止むを得ず、御開帳を行ひ、神社費に當てしが殘りて奉仕せる神務石原家は無碌の事とて遂には生活難に襲はれ天滿宮御年忌以外にも御開帳を行ひて諸經費に充當せしものなり。
然る處今より六代前の石原市正菅原定武は步行速力萬人に優れたるを以て特に德川幕府より拔擢せられ年々二百石の扶持を受くるに至りしより稍々生活に餘裕を生じ領土も少々持ちしも後代に至りて亦もや生活難澁となり所有田地を少々宛賣却して渡世せしに里人これを見るに忍びず、天滿宮御年忌大祭には萬燈講を起し又諸方に出でゞ[10]寄進を勸誘し御開帳の節收めし金を以て御祭典を執行せしなり。
明治維新前德川幕府大政奉還と同時に諸代名藩籍奉還となり所有地領皆無となりしが明治初年當家近傍御御拂下となるや東坊城家が之れを買收せられしを檜垣與左衛門氏及鳥羽重義氏の力添にて之を讓受て稍やく私有田地を得るに至る。
之れを以て社費及生活費に充つゝ奉仕し來りしが、社よりの收入皆無、加ふるに田地よりの收入も少なく漸時生活難に襲はれ私有田地の一部を賣却して其日を送り來る。
かゝる有樣なれば西、北、東條町の者相集り明治二十二年より天滿宮へ一度神饌を献供するに玄米五合とし其の一部を神饌費とし餘分は社入にし每年十月十三日に天滿宮、及天女院に奉ること即玄米一升を最低として崇敬者の志によりて定めしが三升を以て正月、三月、五月、九月、の二十五日幷十月十三日の六度とし、七升以上は每月廿五日献供する事に定め、又御燈明料も一定し十二月下旬各戶より集收して收入の道開けしも神社經費全部を償ふに足らず、明治四十四年より各戶に神饌献供せずに五合以上崇敬の志に寄りて增加する事となる。
例へば一升の家は一升五合となり、三升の家は四升若くは五升となり七升以上の家は八升又は一斗或は一斗二升等となり南條町よりも同じく一升以上志にて献供する事となる。
然るに父石原市之進菅原定宣死亡と共に石原松尾神社兼務慰勞米一斗五升は無くなり又野里松尾神社兼務慰勞米五升及當村惣作中神饌米二斗五升合せて三斗野里町より納りしが基本財產一千圓積立上大正四年九月八日御供田處分と共に野里町よりの分は消え當村惣作中神饌料は金參圓參拾參錢となり次に大正二年より神饌幣帛料金拾五圓村役場より納まりしも三大祭の經費に不足を來たせしが之れは其都度氐[11]子より受けしも大正九年より金參拾圓に增加せしを以て不足金は生ずるとも徵收せざることゝなる。
又當社として神職會費其他臨時取替分も氏子に割當居たり。
然れども社掌として最下級の十二級俸(月參拾圓)も表面のみにて全收入は社費に充てしが大正十一年七月當社收支决算を郡長臨驗の結果書類と事實との相異甚しきを觀破せられ社掌俸級は必ず出費すべしとの命ありしより氏子總代世話方町總代等實地經費の調査を受けしが如何にも事實上收支相償はざること判明し同八月二十四日協議の結果十二級俸を支給する事に决し大正十二年より實施せらると同時に以前の全收入を神社直接費に充當し別に金參百六拾圓を支出し前年度豫算金貳百貳拾貳圓六拾四錢五厘を金六百參拾六圓五拾壹錢に改めたり。
然るに如何なる都合にや十二月神饌料及御燈明料集收せしが、本年より御燈明料は納めずとの事にて一石九斗五升の內一斗五升餘を殘して不納となり、前記の當村惣作中神饌料も、神職會費及び臨時不足費等の割當出費も自然消滅して收入に减少を來し且つ役場より每年金百圓の補助金も二年間にて後は支給せられず(但昭和三年より村公園監督費として支給さるゝことゝなる)大正十四年度下半期分より南條町の分は今に滯納となり支出の方は年々增加して又もや收支豫算も亂れて今日に至る。
[1] | このあたりの返り点「二」が消えています。 |
[2] | 「享」の字を2文字(上下に分割)と誤読されたようです。 |
[3] | ここの返り点「下」は明らかに変ですが、「上二」としても「*下*上二*一」でやっぱり変。 |
[4] | 「无」の誤記と思われますが、これだけ繰り返し出てくるということは正しいのかもしれません。 |
[5] | 「郞」が抜けているようですが、原文通り表記します。 |
[6] | 「大」の誤記ですが、原文通り表記します。 |
[7] | 「千」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[8] | 私には読めません。「元」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。 |
[9] | 「已」の誤記と思われますが、原文通り表記します。「已」と「巳」の区別なしにすべて「巳」と書かれているようです。 |
[10] | 「出でゝ」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[11] | 「氏」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/02/14