吉祥院天満宮詳細録 第十二章 p433 - 442
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第十二章 吉祥院天満宮吉祥天女院及吉祥院村等に関する雑文叢

(一)扶桑略記 干中
治暦二年吉祥院造天神堂奉移尊廟』とあるは承平四年創祀せし神殿は未だ粗末なるものなりしならん、 以来百三十余年を経たる治暦二年に再建造営して菅霊を移し奉りしなり。
(二)吉祥天女御尊像は、かの応仁の大乱及其後も世の中さわがしく神社仏閣多く兵火の為め焼失し漸時当地方にも及ばんとするの危険に頻す、 されば本堂は再建し得るも、御本尊を失いてはならじとて南部の土中に埋め置き別に仮天女の尊像を刻み奉りて本堂に安置し開眼供養を為す、 其の願文は左に記す。 さて世しずまるとともに前に埋めし御本尊を掘り出し清浄にして元の如く安置し奉りしを以て今に土気の存するは畏き極みなり。
(三)城南院吉祥天開眼供養願文 山城一乗寺村曼珠院蔵
大永四年九月廿五日
『夫七百歳権扉之場洪基壮麗嘆非古八十頃布金之地精舎廃毀在于今佗玉以其時哉 我邦是可忍也 窃惟城南氏〓[1]者草創
延暦上世本願古人四男儒行以高 桓武聖皇委遣使之任方名兼済李唐徳宗典頁 眄之情竟与逸勢乗帰船風共是弘法就下䌫日爾降造文章院於吏部省輝曹王始祖之美誉悛衣服様於異朝儀涙大内諸額之新制式百官之慶勧舞踏多四道之学鞭巻舒聴御駕牛車独呼国之元老扶々鳩杖孰知家之後栄奇也 欣而崇蒼海降臨之尊天焉貴哉 孫而抱日城埀跡之霊神矣爰吾太政威徳天者文之太祖道之先師寛平朝廷逢知人之鑑
延喜宇代接採良弼之材万機咸知関内覧式相並寔人其人兮遇其世世矧世其世兮得其人遂使表神威平一天配祖宗而列廿二社示霊託乎 九関ヽヽヽ而促千万僚君臣仰鎮護之詩緇素傾慈悲之体聞説患虚詐虚詐帰実僉曰祈官佐官位忽臻豈疑施無畏者之利生着明観世音菩薩之化現抑復吉祥切徳大天者於宝華仏種善本去因多門天為正住来百卉芬芳身有資生具二臂赤白手持如意珠彼天弁方之以恵為正以福為助乎 此功徳尊者以福為先以恵為後矣 自三味之方便離別同一体之内証無若不図応仁罹兵乱凶旧像為賊徒而散大永承 神授職新客荅曩志而安五十余載闕典如之何三箇季間紿隆有之作故依吉曜吉宿勘録振今月今日化儀
陛下詔加〓[2]相連玉佩之座堂裏粧儼雲客擎金籠之葩奉造立安置吉祥功徳天一体恭屈僧正法印大和尚位光什為開眼供養導師跨八正之門踞五衍之軾掩室摩竭戒慧為之戸墉杜口毘耶性心為之郷宇苟海内之名傑惟辰極之法星観厥松杉遶朝夕之池昔日景似不改薫蘭鬱清浅之沢今時番自宜薫況九月有初開梅而重陽存摘浅菊物皆足助力願乃得頓成然則天女論応化之身多門即天女天女即威徳挙変作之異威徳是
天神天神是多門料識利益広大之冥憐盍預済度無辺之慈意加旃伽藍勝境無億々不杇之安寧神祠封田獲戸々生熱之富楽七宝極妙常ヽヽヽ災禍永休春八千秋八千春穐鼎盛天数五地数五天地大和仍回向至心功徳平等敬白
大永四年九月廿九日
長者正二位行[3]菅原朝臣[4]長』
(四)仏説大吉祥天女十二名号経
唐三蔵沙門大広智不空訳
如是我聞、一時薄伽梵、住極楽世界、与無量大菩薩衆、前後囲繞而為説法、爾時観自在菩薩魔訶薩等、大吉祥天女菩薩魔訶薩、皆湜座起、詣世尊所、頭面礼足、各坐一面、爾時世尊、為欲利益、薄福貧窮、諸有情故、告観自在菩薩言、善男子、若有苾芻、苾芻尼、近事男、近事女、諸有情類、知此大吉祥天女、十二名号、能受持読誦修習供養、為佗宣説、能除一切、貧窮業障、獲大富貴、豊饒財宝爾時会中、天竜八部、異口同音、咸作是言、如世尊説、真実不虚、我等願聞、十二名号、惟願世尊、大悲演説、仏言汝当善聴、今為汝説所謂
吉慶 吉祥 蓮華厳飾 具財 白色 大名称 蓮華眼 大光曜 施食者 施飲者 宝光 大吉祥
是為十二名号汝当受持我今〓[5]説大吉祥陀羅尼曰
怛你也佗 室哩抳 室哩抳 薩縳迦哩野 沙駄𩕳 悉𩕳 悉𩕳 𩕳𩕳 𩕳𩕳 阿洛乞史茗 曩捨野 娑嚩[6]
爾時世尊説是陀羅尼巳告観自在菩薩言、此大吉祥陀羅尼、及十二名号、能除貧窮一切不詳所有願求皆得円満、若能昼夜三時読誦此経、毎時三編式常受持不間、作饒益心、随力虔誠、供養大吉祥天女菩薩、速獲一切財宝豊饒吉祥安楽、時観自在菩薩摩訶薩、及諸大衆、天竜八部、徥仏聞説、十二名号及陀羅尼、歎未曽有皆大歓喜信受奉行
仏説大吉祥天女十二名号経
大吉祥天女真言
おーん ま かし 志のー[7] ゑい そわ かー
注ニ曰ク「吉祥院トハ清公卿ノ御願ニテ是善卿ノ御建立アリタル菅家ノ御寺ナリ 干[8]今城南吉祥院村ニ一村ノ森アリテ天神ノ社ヲ建、其ノ前ニ川アリ天神川ト唱フ」トモ見エタリ。
(五)筑前国続風土記巻之七 干中
延喜五年八月十九日安楽寺に始て菅公の神殿を立らる云々 是菅公を始て神と崇め参らせし時作りそめし神殿也 (法性坊、其社地を定め庿前の池にはの字の形を模写せりと云う云々 斯て菅公をば天満大自在天神と号し奉りける云々 又何時にか在けん此御社に天満宮と庿号をまいらせらる。 宮の字を称すること帝王の神霊を祭奉る御社ならでは其号なし。 是伊勢八幡、二所の宗庿に同じき勢号也。 又其徳を尊崇おわしまして聖庿とも号せり。 僧万里が帳中書第二十一に本邦口伝云、昔筑紫宰府菅丞相祠堂の額に扁して、菅丞相聖庿の五字を懸く。 神夢中に託して曰、我は是謫官にして斯地に寓す。 霊異に依て丞相等の号を追贈せらる。 廟の字は广の下に朝庭の朝字有。 我祠堂に於て宜しとせず。 幸に是庿は古字廟也。 自今已後我が為に則庿の字を用て廟の字を用べからずと、是又文選六十巻講読成就の時先輩伝受の一件也。 云々 六条院仁安三年始て神前に日別の神食を備う毎日怠ることなし。 今も其法、大なる神器に一斗の御飯をうずたかくもり、色々の供物御酒など備え奉る。 凡十五饌、二十六番神厨有て是を調べ[9]烏帽子白張着たる役夫是を荷う朝毎に祭礼の行わるること斯の如し云々 此御社の祭礼、初は太宰帥と成人司れり。 其後菅原氏勅を受てかわるがわる御社の別当と成り六年を以て任とし祭礼を行しむ。 後堀川院の御時菅公九世の孫菅原善昇と云し人おおやけのみことのりにて西府に下り社職をつとめ、祭礼を司れり。 後に祝髪して信貞と号す。 其嫡子を信昇と云。 是より大鳥居、小鳥居などの家分れて、其子孫相続て今に至て社務職たり。 今の宮司は大鳥居、小鳥居、御供屋、執行房、浦の坊、此五家は共に菅原姓にて別当職と称す就中、大鳥居は古より別当留守職として今も其巨擘たり。 小鳥居当昔相並んで神事を執行、かわるがわる別当留守職を務めしとかや(大鳥居の向に宅有故に大鳥居と云。小鳥居の方に宅有故に小鳥居と云)又宮司あり。 三綱有り。 文人有り、衆徒有り凡そ社職二十六家其外末々の神人猶三十人許各血脈綿々として相継て不絶。 神前の宿直、上旬は撿校坊、中旬は満盛院、下旬は勾当坊つかうまつれり、昔より今に至迄、日夜ともに片時も怠ることなし。 此三家は彼の味酒の安行の苗裔なりと云う云々 菅公詩歌を好み給い御心はせ風雅におわしましけるが常に梅をなん深くめで玉いければ御社の辺にも梅を多く植まいらせ、今に至てしかり。 又松もいとめでたき物におぼし玉いけるとぞ。 凡松は万木のしぼめるにおくる、霜雪を経て緑をあらわし歳寒の操あり。 梅は色も香もいといさぎよくして万の花にさきだちひとり雪の寒きをおかして開くこと実にいみじくあわれむべき花なり。 松梅ともに君子の徳になぞらえければ殊に御心叶ててぞ聞えさせ玉いけるもむべなり。 又都にて東風吹かばと読せ玉いしに紅梅一夜に太宰府に飛来しと世には云伝え侍る。 其梅を飛梅と称しける。 其木はたねをうえ伝えて今もおまえにあり。 新古今神祇部に 情なくおる人つらし我宿のあるじわすれぬ梅の立枝を、此歌は建久二年の春、筑紫へまかりける者の安楽寺の梅を折て侍ける夜、夢に見えけるとなむ。 又桜をもことにめでさせ玉いしにや、後撰集に、家より遠き処にまかる時、前栽の桜の花にゆい付けける。
桜花主を忘れぬものならば吹こん風に言伝わせよ。 斯く生前に御心を留められし木なれば迚、鳥居の外なる通路の左右に並木の桜を植て桜馬場と号す。 云々』
[1]〓の漢字は[阝宛]です。
[2]〓の漢字は[糸昜]です。
[3]通常、官と位が相当する場合は「中納言従三位某」のように官・位・姓名の順に書き、官と位が相当しない場合は位・官・姓名の順に書くそうです。 そして、位が高く官が低い場合は位と官の間に「行(ぎょう)」の字を加え、逆の場合は間に「守(しゅ)」の字を加えるそうです。
[4]大永4年(1524)当時、氏長者は権大納言を辞任していた東坊城和長なので、「和」の脱字と思われます。
[5]〓の漢字は[氵复]です。
[6]正確には[]の[]部分を[]に置き換えた字です。
[7]「志のー」の部分は「しり」や「しゅり」とする情報が多いのですが、原文を見たまま表記します。
[8]「于」(ハネあり)が正しいと思われますが、原文を見た通り「干」(ハネなし)と表記します。
[9]原文は「べ」が時計回りに90度回転しています。活版印刷特有の誤植です。

更新日:2021/02/18