社寺町名 (山科区) |
ZIP、区 | 町名 | 由来社寺[1] | 社寺所在時期[2] | |
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607-8001 山科区 |
あんしゅ びしゃもんどうちょう 安朱 毘沙門堂町 | びしゃもんどう 毘沙門堂 | 現 | 寛文5年(1665) 〜現在 |
607-8005 山科区 |
あんしゅ どうのうしろちょう 安朱[3] 堂ノ後町、他16町 | あんしょうじ 安祥寺[4] | 現 | 嘉祥元年(848) 〜現在 |
607-8043 山科区 |
しのみや ちゅうざいじちょう 四ノ宮 中在寺町 | [不詳][5] | − | − |
607-8045 山科区 |
しのみや どうのごちょう 四ノ宮 堂ノ後町 | とくりんあん 徳林庵(山科地蔵) | 現 | 天文(1532-1555) 〜現在 |
607-8066 山科区 |
おとわ もりまわりちょう 音羽 森廻り町 | わかみやはちまんぐう 若宮八幡宮 音羽の杜 | 現 | 7世紀後半 〜現在 |
607-8085 山科区 |
たけはな どうのまえちょう 竹鼻 堂ノ前町 | さいねんじ 西念寺 | 現 | ? 〜現在 |
607-8088 山科区 |
たけはな じぞうじみなみちょう 竹鼻 地蔵寺南町 | じぞうじ 地蔵寺[廃][6] | 元 | ? 〜明治13年(1880) |
607-8101 山科区 |
こやま かみなしもりちょう 小山 神無森町 | [不詳][7] | − | − |
607-8106 山科区 |
こやま ごぼうのうちちょう 小山 御坊ノ内町 | みょうきょうじ 明教寺? | 現 | 慶長(1596-1615) 〜現在 |
607-8116 山科区 |
こやま ちんじゅちょう 小山 鎮守町 | [不詳][7] | − | − |
607-8217 山科区 |
かんしゅうじ かんりんじ 勧修寺 閑林寺 | [不詳] | − | − |
607-8218 山科区 |
かんしゅうじ ごしょうちちょう 勧修寺 御所内町 | かじゅうじ 勧修寺 | 現 | 昌泰3年(900) 〜現在 |
607-8226 山科区 |
かんしゅうじ におうどうちょう 勧修寺 仁王堂町、他28町 | かじゅうじ 勧修寺 | 現 | 昌泰3年(900) 〜現在 |
607-8234 山科区 |
かんしゅうじ みなみだいにちちょう 勧修寺 南大日町 | だいにちじ 大日寺[廃] | 元 | 平安前期 〜平安中期 |
607-8235 山科区 |
かんしゅうじ みなみだいにち 勧修寺 南大日 | だいにちじ 大日寺[廃] | 元 | 平安前期 〜平安中期 |
607-8237 山科区 |
かんしゅうじ きただいにちちょう 勧修寺 北大日町 | 大日寺[廃] | 元 | 平安前期 〜平安中期 |
607-8238 山科区 |
かんしゅうじ きただいにち 勧修寺 北大日 | だいにちじ 大日寺[廃] | 元 | 平安前期 〜平安中期 |
607-8344 山科区 |
にしの おおてさきちょう 西野 大手先町 | やましなほんがんじ 山科本願寺[廃] 正面玄関口 | 元 | 文明15年(1483) 〜天文元年(1532) |
607-8358 山科区 |
にしの むめもとちょう 西野 楳本町 | むめもとでら 楳本寺 [廃][8] | 元 | ? 〜明治11年(1878) |
607-8407 山科区 |
みささぎ あんしょうじちょう 御陵 安祥寺町 | あんしょうじ 安祥寺[9] | 現 | 嘉祥元年(848) 〜現在 |
607-8474 山科区 |
きたかざん てらうちちょう 北花山 寺内町 | がんけいじ 元慶寺[10] | 元 | 元慶元年(877) 〜応仁の乱(1467-77) |
[1] | 鏡山氏の『鏡山 次郎 ホームページ』「山科 地名 物語 ❐」を参考にさせていただきました。 |
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[2] | 社寺の創建年や移転年は、諸説あって確定していない場合があります。 ここでは代表的な説を記しています。 |
[3] | 延宝元年(1673)に安祥寺村と朱雀村が合併して安朱村になりました。 |
[4] | 現在の安祥寺は御陵平林町にありますが、応仁の乱で焼けるまではもう少し東にあったのではないかと想像しています。 |
[5] | 鏡山氏は、中在寺町内にある諸羽神社の神宮寺説を唱えられています。 |
[6] | 北花山の華山寺に合併されました。 |
[7] | 近くの音羽平林町に諸羽神社(四ノ宮中在寺町)と若宮八幡宮(音羽森廻り町)の御旅所がり、この鎮守の森が地名の由来かもしれません。 この御旅所の祭祀は、古代信仰の原始的形態である磐境(いわさが)(巨大な石に対する自然崇拝)を中心としたものであるともいわれており、鎮守の森が小山神無森町や小山鎮守町あたりまで広がっていたのでしょう。 |
[8] | 鷹峯の源光庵に合併されました。 |
[9] | 安祥寺は醍醐寺同様に山中の「上寺(かみのてら)」と麓の「下寺(しものてら)」が存在しました。 応仁の乱によって上寺・下寺とも廃寺となりましたが、江戸時代に下寺だけが現在地に再建されました。 安祥寺の北約1キロ、御陵安祥寺町内の安祥寺山の中腹・観音平というところが上寺跡で、現在も礼仏堂の基壇跡が残っています。 |
[10] | 正徳元年(1711)刊の『山城名勝志』には元慶寺の古地について「海道北山際有呼寺内田、至干今所々残礎石」と書かれています。 応仁の乱で焼ける前の元慶寺は現在地より西の北花山寺内町付近にあったと思われます。 |
更新日:2022/03/15