社寺通り名 (東西)

 京都には社寺が多くあるだけに、社寺に由来する名前の通りも多く存在します。

 通りは途中で分断されていることがあり、通り名だけを頼りに目的地へ向かう時は要注意です。

道路名 区間(西〜東) 由来社寺 社寺所在時期
まんしゅいんみち 曼殊院まんしゅいんみち 川端通
〜曼殊院勅使門
まんしゅいん 曼殊院まんしゅいん 明暦2年(1656)
〜現在
いまみやどおり 今宮いまみやどおり[1] 千本通
〜加茂街道
いまみやんじゃ 今宮神社いまみやんじゃ 正暦5年(994)
〜現在
けんくんきたどおり 建勲北けんくんきたどおり 船岡東通
〜猪熊通
けんくんじんじゃ 建勲神社けんくんじんじゃ 明治13年(1880)
〜現在
けんくんどおり 建勲けんくんどおり 船岡東通
〜猪熊通
けんくんじんじゃ 建勲神社けんくんじんじゃ 明治13年(1880)
〜現在
かみごりょうまえどおり 上御霊前かみごりょうまえどおり 智恵光院通
〜加茂街道
かみごりょうじんじゃ 上御霊神社かみごりょうじんじゃ 延暦13年(794)
〜現在
ろざんじどおり 廬山寺ろざんじどおり[2] 木辻通
〜大宮通
ろざんじ 廬山寺ろざんじ 寛元元年(1243)
〜天正(1573-93)
みかげどおり 御蔭みかげどおり 下鴨本通
〜志賀越道
しもがもじんじゃ 下鴨神社しもがもじんじゃ 御蔭祭の神幸 崇神天皇7年(BC90)
〜現在
ひらのもんぜんどおり 平野門前ひらのもんぜんどおり 平野神社前・平野通
〜七本松通西入
ひらのじんじゃ 平野神社ひらのじんじゃ 延暦13年(794)
〜現在
もとせいがんじ 元誓願寺もとせいがんじどおり 七本松通
〜新町通
せいがんじ 誓願寺せいがんじ 鎌倉初期
〜天正19年(1591)
にんなじかいどう 仁和寺にんなじ街道かいどう 馬代通
〜浄福寺通
にんなじ 仁和寺にんなじ新堂[3] 康平2年(1059)
〜長治2年(1105)
みょうしんじみち 妙心寺みょうしんじみち 妙心寺南総門西
〜御前通
みょうしんじ 妙心寺みょうしんじ 康永元年(1342)
〜現在
たいしみち(きゅうにじょうどおり) 太子たいしみち
旧二条きゅうにじょうどおり
太秦・三条通
〜千本通
こうりゅうじ 広隆寺こうりゅうじ 聖徳太子の参詣 延暦(782-806)
〜現在
たいしみち(しんにじょうどおり) 太子たいしみち
新二条しんにじょうどおり
天神川通
〜御前通
こうりゅうじ 広隆寺こうりゅうじ 聖徳太子の参詣 延暦(782-806)
〜現在
におうもんどおり 仁王門におうもんどおり 川端通
〜蹴上・三条通
ちょうみょうじ 頂妙寺ちょうみょうじ 仁王門 寛文13年(1673)
〜現在
ふるもんぜんどおり 古門前ふるもんぜんどおり 縄手通(大和大路通)
〜東大路通
ちおんいん 知恩院ちおんいん 古門 承安5年(1175)
〜現在
かちょうみち(ふるもんぜんどおり) 華頂かちょうみち
古門前ふるもんぜんどおり
東大路通
知恩院黒門・神宮道
ちおんいん(かちょうざん) 知恩院ちおんいん華頂山かちょうざん 承安5年(1175)
〜現在
しんもんぜんどおり 新門前しんもんぜんどおり 川端通
〜東大路通
[古門前通に対応]
ちおんいんみち 知恩院ちおんいんみち 東大路通
知恩院三門・神宮道
ちおんいん 知恩院ちおんいん 承安5年(1175)
〜現在
ろっかくどおり 六角ろっかくどおり 佐井西通
〜西木屋町通
ちょうほうじ(ろっかくどう) 頂法寺ちょうほうじ六角堂ろっかくどう 用明天皇2年(587)
〜現在
たこやくしどおり 蛸薬師たこやくしどおり 佐井通西入
〜木屋町通
えいふくじ(たこやくしどう) 永福寺えいふくじ蛸薬師堂たこやくしどう 天正19年(1591)
〜現在
ぶっこうじどおり 仏光寺ぶっこうじどおり[4] 佐井西通
〜鴨川右岸
ぶっこうじ 佛光寺ぶっこうじ 天正14年(1586)
〜現在
まんじゅじどおり 万寿寺まんじゅじどおり 葛野西通
〜河原町通
まんじゅじ 万寿寺まんじゅじ 元徳2年(1330)
〜天正(1573-92)
ろくはらうらもんどおり(かきまちどおり) 六波羅裏門ろくはらうらもんどおり[5]
柿町かきまちどおり
川端通?
大和大路通?
〜東大路通?
ろくはらみつじ 六波羅蜜寺ろくはらみつじ 天暦5年(951)
〜現在
ちゅうどうじどおり 中堂寺ちゅうどうじどおり 西小路通
〜大宮通
ちゅうどうじ 中堂寺ちゅうどうじ 天正(1573-92)
〜現在
はなやちょうどおり 花屋町はなやちょうどおり 天神川通
〜富小路通
[不詳][6]
まんねんじどおり(はなやちょうどおり) 万年寺まんねんじどおり
花屋町はなやちょうどおり
新町通
〜富小路通
まんねんじ 萬年寺まんねんじ 天正19年(1591)
〜現在
しょうめんどおり 正面しょうめんどおり 千本通
〜大和大路通
ほうこうじ 方広寺ほうこうじ 大仏殿 文禄4年(1595)
〜現在
おんまえどおり(しょうめんどおり) 御前おんまえどおり
正面しょうめんどおり
堀川通
〜新町通
にしほんがんじ 西本願寺にしほんがんじ 天正19年(1591)
〜現在
せんにゅうじみち 泉涌寺せんにゅうじみち 本町通
〜泉涌寺大門
せんにゅうじ 泉涌寺せんにゅうじ 天長(824-834)
〜現在
とうじどおり(とうじみち) 東寺とうじどおり[7]
東寺とうじみち
御前通
〜鴨川西岸
とうじ 東寺とうじ 延暦15年(796)
〜現在
しんじょうなんぐうみち 新城南宮しんじょうなんぐうみち 鳥羽街道(千本通)
〜竹田浄菩提院町
じょうなんぐう 城南宮じょうなんぐう 延暦13年(794)
〜現在
じょうなんぐうみち 城南宮じょうなんぐうみち 鳥羽街道(千本通)
〜竹田街道
じょうなんぐう 城南宮じょうなんぐう 延暦13年(794)
〜現在
[1]道幅が六間幅(約10.9m)で作られたことから、六間通(ろっけんどおり)とも呼ばれています。
[2]「廬」の漢字が難しいためでしょうか、盧山寺通、蘆山寺通、芦山寺通とも表記されます。
[3]仁和寺新堂は仁和寺門跡2世性信(しょうしん)入道親王が建立したもので、現在の仁和小学校のある御前通一条下る東側にありました。
なお、「京都市の地名」P1037の仁和寺街道の項では、馬代通を北上して一条通を西へ仁和寺門前に至る街道と説明していますが、Web上では馬代通を西端とする情報が多くみられます。
[4]近世までは現在の高辻通を仏光寺通と呼び、仏光寺通を五条坊門通と呼ぶこともありました。
[5]六波羅南通という呼び名もありますが、詳細は不明です。
[6]東・西本願寺に手向ける生花商の店が多かったことから名付けられたとする説があります。
[7]東寺から西側の区間(御前通〜壬生通)は東寺西門通とも呼ばれます。

更新日:2022/03/18