日本における本格的な巡礼は、西国三十三所観音霊場が最初とされています。

 西国三十三所観音霊場は養老2年(718)に大和長谷寺の徳道上人によって始められ、約270年後に花山法皇(968-1008)によって再興されたと伝承されていますが、 確実な史実としては、応保元年(1161)に近江三井寺の覚忠大僧正が近畿地方に散在する三十三カ所の観音霊場を巡ったことが知られています。[1]

 時代とともに観音霊場は普及し、やがて西国三十三所以外に新たな霊場も作られるようになります。 例えば、深い観音信仰を持っていた源頼朝(1147-1199)は西国に倣って東国の三十三箇所霊場を発願し、これが実朝(1192-1219)の代に坂東三十三箇所霊場として成立したと考えられています。

室町時代の中頃に至りては民間に札所巡の風盛となり、西國三十三ヶ所にならひ、國に三十三ヶ所を設け、郡に三十三ヶ所を定むるに至れり。 永享の頃より盛なりしものの如し。
《何鹿郡誌》

 永享年間は室町時代中頃の1429-1441年にあたります。 この頃になると西国三十三所にならった写し霊場が国や郡単位で全国各地に設けられ、民間でも札所巡りが盛んに行われるようになりました。


[1]『寺門高僧記』に収められた行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」は11世紀末(1093-1094)頃の内容とされ、西国三十三所巡礼の確かな初見史料として高く評価されていますが、史実とは認められないとの学説もあります。