洛陽七天神詣 | 日本歴史叢書<19>天満宮 原典:北野天満宮記録 元禄12年(1699) |
洛陽七天神 | 現在 | |
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一番 | 北野 | 北野天満宮 |
二番 | 水火天神 | 水火天満宮
※ 昭和27年(1952)、上天神町から現在地へ移転 |
三番 | 北野奥院 | 北野天満宮摂社 地主社[1] |
四番 | 綱敷天神 | 綱敷行衛天満宮
※ 昭和9年(1934)、行衛天満宮と合併 |
五番 | 吉祥院 | 吉祥院天満宮 |
六番 | 東寺 | 東寺 天満宮 |
七番 | 菅大臣 | 菅大臣神社 |
[1] | 貞享元年(1684)に著された「菟芸泥赴(つぎねふ)」に以下の記述(写本による若干の違いあり)があります。
○北野社 〔愛宕葛野両郡かゝれりと云へり〕
社は天満宮より五十歩ばかり後に在 続日本紀に用明帝御宇承和三年二月遣唐使のために天神地祇をいはひまつる云々
是天満宮地主の神也
世に伝ふ
天満宮の南の楼門は社より少東の方に有
是所謂地主神遥拝のためなり
祭所の神一座北野〔菅丞相より以前の神也〕
○天満宮
右近馬場に在祭所の神三座
菅丞相〔中間 本地十一面〕 中将殿〔東間 本地不動〕 北御方〔西間 本地毘沙門〕 一菅丞相は道真公菅原是善公の子也 醍醐帝の御宇に時平は左大臣道真公は右大臣にて政務をとりおこなひ給ひしに道真公才高く忠節賢良まされる事を時平公妬みて讒言調伏す 延喜元年に菅家を筑紫太宰府に配流し奉れり 同三年二月二十五日配所にて薨〔五十九歳〕 安楽寺に葬る <中略> 同九年三月近江の国比良の禰宜に託宣して北野に一夜に松千本はへたらん処に社をたてよとあれば朝日寺の僧最珍とかの文子とゝもに社をたつ 一中将殿は菅三品の嫡子とぞ〔未審〕 一北の御方は吉祥女と申吉祥院の里に住給ふと也
・天満宮の背後に独立した北野社がある
ということで、当時の北野社、現在の北野天満宮の摂社・地主社❐が北野奥院に相応しいと判断しました。・北野社は天神地祇を祀り、天満宮の地主の神で天満宮より古い また、北野天満宮の楼門と参道の位置が東へずれていることに対する長年の疑問もこれで解決しました。 |
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更新日:2021/03/18