洛陽四十八所地蔵 洛陽四十八所地蔵霊場巡禮利生記 元文5年(1740)
洛陽四十八所地藏霊場巡禮利生記 現在
第壱番 佛光寺通 壬生寺 縄目地藏 壬生寺/縄目地蔵[1]
第弐番 綾小路大宮西 光林寺 水上地藏 光林寺
第三番 四条大宮西 勧学院[2] 雀森地藏 更雀寺[3]/桶取地蔵
第四番 右東隣 悟真寺 養老地藏 悟真寺[4]
第五番 錦小路大宮西 休務寺 萬人地藏 休務寺/万人講地蔵
第六番 蛸薬師大宮西 成圓寺 延命地藏 成円寺
第七番 知恵光院下立賈上 昌福寺 福地藏 昌福寺
第八番 下立賣千本西 勝岩院 見顧地藏 勝巌院
第九番 下立賣千本二町西 祐正寺 妻娶地藏 祐正寺
第十番 内野三軒寺西ハシ 報土寺 腹帯地藏 報土寺
十一番 北野右近馬場通西かわ 超圓寺 跡追地藏 超円寺
十二番 紙屋町ノ西 地藏院 昆陽地藏 地蔵院/鍬形地蔵
十三番 北野七本松通一条上 清和院 王體等身地藏 清和院
十四番 一条千本東 淨福寺 淨土引接地藏 浄福寺
十五番 知恵光院通一条上 知恵光院 六臂地藏 智恵光院
十六番 千本通五辻上 石像寺 釘抜地藏 石像寺
十七番 千本 上品蓮臺寺 天神同躰地藏 上品蓮台寺
十八番 蓮臺寺院内十二坊の入口東かわ 逆流川地藏 歯形地蔵[5]
十九番 柳原玄番町室町通北 西林寺 毯毛地藏 西林寺/木槿(もくげ)地蔵
廿番 寺町上御霊ノ後 西園寺 槌止地藏 西園寺/槌留地蔵
廿一番 寺町今出川三町北 佛陀寺 王城鎮地地藏 仏陀寺/王城地祭地蔵
廿二番 百万遍知恩寺西門見付 西光寺 水落地藏 西光寺[6]
※ 明治32年(1899)、現在地へ移転
廿三番 神樂岡 真如堂 鎌倉ノ地藏 真如堂/鎌倉地蔵[7]
廿四番 白川橋庚申堂[奥] 金藏寺 米地藏 「金蔵寺[8]」廃寺 /米(よね)地蔵は尊勝院
廿五番 二条新地東寺町 西方寺 衣通姫地藏 西方寺
廿六番 右同所西寺町 三福寺 夢見地藏 三福寺
廿七番 三条大橋東詰 法林寺 袖取地藏 檀王法林寺
廿八番 寺町三条上 矢田寺 奈落化現地藏 矢田寺/代受苦地蔵
廿九番 誓願寺内本堂 江岸院際[9] 河原地藏 「誓願寺塔頭 江岸院[10]」廃寺 /地蔵は法雲寺[11]
三十番 同南後寺町 光明寺 常盤地藏 光明寺
三十一番 右光明寺同所東かわ 妙心寺 醒井地藏 妙心寺/醒ヶ井地蔵
三十二番 右妙心寺すしむかひ 常樂寺 乙子地藏 常楽寺
三十三番 寺町圓福寺内蛸薬師北隣 宝幢院 鯉地藏 「宝幢院[12]」廃寺 /鯉地蔵[13]永福寺
三十四番 右宝幢院のすしむかひ 清帯寺 腹帯地藏 「清帯寺[14]」廃寺 /腹帯地蔵[15]西光寺
三十五番 寺町錦小路上 了蓮寺 枕返地藏 了蓮寺
三十六番 四条通寺町角 住心院 染殿地藏 染殿院
三十七番 建仁寺町四条上 仲源寺 目疾地藏 仲源寺
三十八番 松原建仁寺東 六波羅蜜寺 髪掛地藏 六波羅蜜寺
三十九番 六波羅境内 十輪院 夢見地藏 「十輪院[16]」廃寺 /夢見地蔵は六波羅蜜寺
四十番 八坂塔ノ上 十輪院 身代地藏 「十輪院[17]」廃寺?
四十一番 音羽山 清水寺 勝軍地藏 清水寺
四十二番 東山渋谷 小町寺 玉章地藏 「小町寺[18]」廃寺 /玉章地蔵[19]退耕庵
四十三番 大佛耳塚前北かわ 専定寺 獅子地藏 専定寺
四十四番 五条下寺町 福田寺 乳房地藏 福田寺
四十五番 右同所西寺町 蓮光寺 駒止地藏 蓮光寺
四十六番 右同所蓮光寺北隣 極樂寺 手引地藏 極楽寺/安産地蔵
四十七番 極樂寺北隣 新善光寺 来迎地藏 新善光寺
四十八番 新善光寺北隣 本覚寺 泥附地藏 本覚寺
 右四拾八所
[1]縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しており、現在の本尊延命地蔵菩薩立像は、昭和42年(1967)に唐招提寺から移されたものです。
[2]洛陽四十八願所地蔵が選定された寛文年間(1661-1673)当時、すでに藤原家の勧学院(大学別曹、寄宿舎)はなく、その跡地(中京区西ノ京勧学院町付近)に建てられ、中京区錦大宮町に移転していた更雀寺が勧学院と呼ばれていたようです。
[3]昭和26年(1951)頃の「京都市明細図」を見ると、四条大宮西入北側の中京区錦大宮町115に「更雀寺」があり、昭和52年(1977)に現在地(左京区静市市原町)へ移転しました。
[4]昭和26年(1951)頃の「京都市明細図」を見ると、「悟真寺」は四条大宮西入北側の中京区錦大宮町116にあり、昭和26年(1951)に現在地(右京区太秦東蜂岡町)へ移転しました。
[5]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「レンダイジ」の東側に十二坊のひとつ「ジゾウイン」があり、逆流川地藏(歯形地蔵)はここにあったようです。
[6]西光寺は上京区上立売通小川西入下ル水落町にありました。 京都坊目誌(上京第八學區之部)」P207の水落寺ノ址の項に以下の記述があります。 「水落町西側にあり。西先寺と號す。本尊地藏尊を安置す。享保年中愛宕郡田中村知恩寺の邊に移す。」(「西先寺」は「西光寺」の誤り)
荒廃していた西光寺が明治32年(1899)に津島市へ移転し再興された際、水落地蔵(立像)も遷されました。
明治34年(1901)に了蓮寺が知恩寺境内へ移転してからは、了蓮寺が22番霊場となって了蓮寺の地蔵(座像)が水落地蔵と呼ばれています。
[7]「殺生石」と呼ばれる石で造られた鎌倉地蔵は、最初鎌倉に祀られていましたが、信仰の篤かった甲良豊後守宗廣(1574-1646)の夢に現れた地蔵尊のお告げによって、真如堂へ遷されました。
[8]米地蔵は青蓮院内にあった金蔵寺の本尊でしたが、明治4年(1871)に金蔵寺が尊勝院と合併し尊勝院へ遷されました。
[9]佛教大学HPの解説「江岸院際 河原地蔵」に従いましたが、「江岸院 際(=西院(さい))河原地蔵」のような気もします。
[10]江岸院は明治16年(1883)に同じ誓願寺塔頭の大善寺に合併されました。 「都名所図会(巻之一)」では誓願寺の本堂南側に「江岸院」と「地蔵堂」が描かれています。
[11]現在の誓願寺には北向地蔵が祀られていますが、これではなく、法雲寺の「子養育地蔵尊」が西院の河原地蔵のようです。 法雲寺は昭和58年(1983)に四条大宮から現在地へ移転しました。
[12]「圓福寺内」という表現から推測して宝幢院は円福寺の塔頭だったと思われます。 明治16年(1883)、円福寺が三河国額田郡岩津村(現・愛知県岡崎市)の妙心寺と寺号を交換し、円福寺のあった場所に現在は妙心寺があります。
[13]永福寺にある鯉地蔵の地蔵堂には「寶幢院」の扁額が掛けられています。
[14]明治6年(1873)に清帯寺が廃寺となって西光寺と合併し、腹帯地蔵は西光寺へ遷されました。 「都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
[15]西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[16]十輪院は運慶一族の菩提寺でした。 「山州名跡志(巻之三)」の普陀洛山六波羅蜜寺の項に以下の記述があります。 「十輪院 在開山堂北 本尊 地蔵菩薩 坐像二尺五寸許」
[17]京町鑑(横町)」の川東之部法観寺門前八坂上町の項に以下の記述があります。 「此町(=八坂上町)八坂の塔有 北側中程に十輪院と云真言の寺有」
[18]小町寺は明治8年(1875)年に廃寺となり、玉章地蔵は退耕庵へ遷されました。 「花洛名勝図会(東山之部六)」の玉章地蔵堂の項に次の説明があります。 「同(=瀋谷/渋谷)街道の東路傍にあり 辻堂なり 世に小甼寺といふ」
[19]退耕庵にある玉章地蔵の地蔵堂には「小町寺」の扁額が掛けられています。

更新日:2022/02/04