六地蔵 |
資益王記 文明14年(1482)7月24日の条 |
後白河法皇(1127-1192)の勅命によって始まったとされる、現在一般に知られている六地蔵とは別のものです。
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資益王記 |
現在 |
1 |
西院 |
高山寺[1]/子安地蔵(子授地蔵)
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2 |
壬生 |
壬生寺/延命地蔵(縄目地蔵)[2]
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3 |
八田 |
矢田寺/代受苦地蔵
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4 |
屋祢葺 |
新徳寺[3]/屋葺地蔵(屋根葺地蔵)
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5 |
清和院 |
清和院/玉体等身地蔵
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6 |
正親町西洞院 |
讃州寺[4]/鷹峯地蔵
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[1] | 現在地へ移る前は四条御前付近にあって、高西寺と号していました。
なお子安地蔵は本堂内の本尊で、境内の大きな地蔵石仏は明治35年(1902)に黒谷山麓から移されたものです。 |
[2] | 旧本尊の縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しましたが、令和2年(2020)に復元されました。
現在の本尊は昭和42年(1967)に唐招提寺から移された延命地蔵菩薩立像です。 |
[3] | 『星光寺縁起』(1487)には、中京区六角通り猪熊にあった星光寺の本尊である屋根葺地蔵(石造)の霊験譚が書かれています。
現在の屋根葺地蔵(木造)はもともと万年寺の地蔵で、元文4年(1739)に万年寺が近隣の寺院と併合して新徳寺になりました。 |
[4] | 讃州寺は室町時代の武将讃岐守政之の邸宅を寺としたもので、最初は正親町西洞院の北(現・上京区讃州寺町)にありましたが、後に堀川上立売の北、竹屋町に転じ、次いで現在の鷹峯千束に移りました。
今は大徳寺・鷹ヶ峰両保育園児による地蔵盆が行われています。 |
更新日:2024/05/17