十二社巡り | 洛陽天満宮廿五社巡り 嘉永5年(1852) |
十二社巡り | 現在 | ||
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壱 | 管[1]大臣天神 | (西洞院仏光寺下ル) | 菅大臣神社 |
弐 | 筑紫天神 | (松原てんしノ内) | 五条天神社末社 筑紫天満宮 |
三 | 紅梅天神 | (下寺町万年寺) | 万年寺内 紅梅天神[2] |
四 | 大雲院天神 | (寺町四条下ル) | 火除天満宮[3] |
五 | 錦天神 | (寺町錦) | 錦天満宮 |
六 | 梅宿菴天神 | (知恩院北門ノ内) | 松風天満宮?[4] |
七 | 菅家天神 | (丸田町寺町東入) | 「菅家天神[5]」廃社? |
八 | 菅原院天神 | (烏丸下立売) | 菅原院天満宮神社 |
九 | 梶井天神 | (出町今出川下ル) | 「梶井天満宮[6]」廃社 |
十 | 水火天神 | (堀川路寺ノ内上ル) | 水火天満宮
※ 昭和27年(1952)、上天神町から現在地へ移転 |
十一 | 安楽寺天神 | (西ノ京) | 北野天満宮末社 一之保神社(時鳥天神)[7]
※ 明治6年(1873)、北野天満宮境内へ遷宮 |
十二 | 北野天神 | 北野天満宮 | |
十二社ノ道法 凡二里半余 |
[1] | 原文通り「管」としています。 |
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[2] | 「都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「万年寺の天満宮は長講堂の南にあり 初は間之町万年寺通の南にありしと也 旧地に紅梅の古木存せり」 |
[3] | 火除天満宮は大雲院の鎮守社でしたが、昭和48年(1973)に大雲院だけが東山区祇園町に移転し、火除天満宮は現在地に残りました。 |
[4] | 松風天満宮の所在地は華頂道の総門(古門)の内(東側)です。 現在は知恩院寺務棟近くの門が北門と呼ばれていますが、知恩院道の表門(新門)に対して北側に位置する古門を北門と呼んでいた可能性があり、また梅宿は松宿の誤記の可能性が考えられます。 |
[5] | 「拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。
「天満宮 丸太町通京極(=寺町)のひがし北側にあり 菅家高辻殿の御鎮守なり」
また「京都坊目誌(上京第十七學區之部)」P62春日尋常小學校の項に以下の記述があります。 「因に云ふ元高辻邸内に天滿宮の祠ありて菅神を祭る。學校となるに及び社殿を下御靈神社境内に移す。其後高辻子爵家より神靈を迎へ東京に遷す。」 wikipediaでは菅家天神の場所が下御霊神社内になっていますが、下御霊神社には元から下御霊天神があり、菅家天神は社殿を下御霊神社境内に移し、その後東京へ遷ったようです。 |
[6] | 「都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。
「梶井天満宮 京極中御霊の東 梶井御門跡の御境内にあり 初は北の方御門前の側にありしが近年こゝにうつす ・・・ 世に菅家の御神像多くありといへども 当社の尊影は希代にして賞せずんばあるべからず」
また、「京都坊目誌(上京第九學區之部)」P268❐梶井町の項に以下の記述があります。 「又梶井舊地に天滿宮の祠宇あり。宮家の所轄たり神像は希代の名作と。都名所拾遺に見ゆ。維新の際廢す。」 |
[7] | 廃仏毀釈によって神宮寺の安楽寺が廃寺となり、安楽寺天満宮は「一之保社」として北野天満宮内へ遷座されました。 その後、旧跡地には再び安楽寺天満宮(上京区北町)が創始されています。 |
更新日:2016/04/24