洛陽廿八箇所妙見宮 | 洛陽廿八箇所開運妙見宮巡拝 成立年未詳 |
「洛陽廿八箇所 開運妙見宮巡拜」額 | 現在 | |||
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壱番 | 住心院境内 | 六角堂 北東 |
多もんじへ 六丁 |
住心院 妙見宮
※ 平成23年(2011)、中京区三文字町から現在地へ移転 |
弐番 | 夛門寺 | 姉小路 油小路西 |
本行寺へ 六丁半 |
「多聞寺[1]」廃寺 |
三番 | 本行寺 | 醒井通 綾小路下 |
一[どふ]院へ 一丁半 |
廃寺[2] |
四番 | 一道院 | 堀川通 佛光寺 |
本圀寺へ 三丁 |
(実質)廃寺[3] ※ 昭和20年(1945)、強制疎開で全建物破毀/本尊と什宝は本立寺(明石市)へ |
五番 | 本圀寺 | 松原堀川 〓[4]林之内 |
志うんじへ 二丁 |
本圀寺檀林 「求法院[5]」廃寺
/妙見菩薩は信正院、のち本栖寺(伏見区)へ |
六番 | 慈雲寺 | 一貫町 三丁目 |
妙とくじへ 廿五丁 |
慈雲寺 |
七番 | 妙德寺 | 内野 五番町 |
立ほんじへ 二丁半 |
妙徳寺 |
八番 | 立本寺境内 | 七本松 下ノ森 |
法花寺へ 一丁 |
立本寺 北辰殿 |
九番 | 法花寺 | 御前通 下ノ森下 |
と[う]明寺へ 四丁 |
法華寺 |
十番 | 燈明寺 | 六軒町 五辻下 |
本瑞寺へ 四丁 |
燈明寺 |
十一 | 本瑞寺 | 寺之前 上立賣 |
妙けんじへ 五丁 |
本瑞寺 |
十二 | 妙顕寺境内 | 小川頭 寺之内 |
妙かくじへ 一丁 |
善行院[6] |
十三 | 妙覚寺境内 | 新町頭 清造口 |
本[ま]んじへ 七丁 |
妙覚寺 妙見祠[7] |
十四 | 本満寺 | 寺町通 今出川上 |
梶井へ 三丁半 |
本満寺 |
十五 | 梶井御境内 | 出町 今出川下 |
河原丁へ 十丁 |
聖トマス学院内 妙見祠?[8] |
十六 | 妙見宮 | 河原丁 二條上ル |
本光寺へ 九丁 |
廃宮[9]/妙見像は妙法院へ(現状不明) ※ 明治4年(1871) |
十七 | 本光寺 | 岡嵜村 | 若[王]じへ 三丁半 |
廃寺[10]/妙見菩薩は満願寺へ ※ 明治維新の際 |
十八 | 若王子 | 御山内 | 御寺へ 五丁 |
「若王子乗々院[11]」廃寺 ※ 明治期の神仏分離で若王子神社が存続 |
十九 | 粟田御境内 | 三條白川橋 | ぎおんへ 四丁 |
青蓮院 |
弐十 | 妙見宮 | 祇園下 | 八坂へ 四丁半 |
★調査中[12] |
廿一 | 十論院 | 八坂塔ノ東 | 三年坂へ 一丁半 |
「十輪院[13]」廃寺? |
廿二 | 一心庵 | 三年坂下 | 鳥辺山へ 五丁半 |
廃寺[14] ※ 明治40年(1907)、本法寺に合併 |
廿三 | 妙見宮 | 鳥辺山 | 五條坂へ 三丁 |
妙見堂 |
廿四 | 清龍寺 | 五條坂 | 大こく町へ 四丁 |
「青龍寺[15]」廃寺 |
廿五 | 壽延寺 | 大黒丁 松原下 |
はし下へ 五丁半 |
寿延寺 |
廿六 | 眞造庵 | 五條橋下 | いなり町へ 七丁 |
廃寺?[16] |
廿七 | 稲荷社内 | 松原高倉 稲荷町 |
おたびへ 六丁半 |
花咲稲荷社? |
廿八 | 祇園御〓[17]社 | 寺町四條 | 三里 卅三丁 |
八坂神社御旅所 「妙見宮[18]」廃絶? |
[1] | 宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、姉小路通油小路西入(現・鍛冶町)に「ヒシヤモン(=多聞寺)」が描かれています。 また「京都坊目誌(上京第二十二學區之部)」に次の説明があります。 「多聞寺ノ址 當町(=鍛冶町)北方妹之辻子東角にあり。維新前に廢寺となる。 ・・・ 本尊は毘沙門天なり。」 |
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[2] | 「拾遺都名所図会(巻之一)」に次の説明があります。
「本行寺 醒井通綾小路の南にあり 法華宗妙覚寺に属す」 また「京都坊目誌(下京第十學區之部)」の要法寺ノ址の項に次の説明があります。 「本町(=要法寺町)西側に。日蓮宗本行寺あり。要法寺に屬す。 ・・・ 明治二十二年頃維持立たず。廢寺となる。」 |
[3] | 「拾遺都名所図会(巻之一)」に次の説明があります。 「一道院 堀川通五條坊門にあり 法華宗本圀寺に属す ・・・ 本藏寺と号す」 |
[4] | 〓は[檀]の異体字[]です。 |
[5] | 「拾遺都名所図会(巻之一)」の本圀寺の項に次の説明があります。 「妙見堂 本圀寺檀林求法院にあり」 |
[6] | 妙顕寺境内には「開運妙見大菩薩」の幟の建つ祠がありますが、善行院の「当山妙見宮由来」に「洛陽二十八宿妙見の第十二番」だったとの説明があるため、善行院としました。 |
[7] | 庫裏玄関の正面突き当たりに祠があり、そこに妙見大菩薩が祀られていました。現在、菩薩像は防犯の関係で祠から本堂へ移されているそうです。 |
[8] | 宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、出町から今出川を下がった東側(現・梶井町)に「梶井御門跡」が描かれています。 梶井門跡は明治4年(1871)に政所のあった大原へ移り、三千院と名を変えました。 その際に妙見が移された様子はなく、跡地に建っている鳥居と祠が該当するとみられますが、残念なことに祠は崩れて朽ちかけています。 |
[9] | 三嶋神社文書「妙見宮拝所普請中日次記」の明治四辛未十月十四日の項❐に、宝暦年間(1751-1764)に妙法院から河原町二条上ル清水町へ妙見像(三嶋神社にあったもの)が授与されたことや、明治4年(1871)に清水町から妙法院へ返却されたことなどが記されています。 |
[10] | 「花洛名勝図会(東山之部三)」に次の説明があります。 「本光寺 満願寺の南にあり ・・・ 妙見堂 西向北辰尊星を祭る 灵(=霊)験あらたにして詣人常に絶ず」 |
[11] | 「花洛名勝図会(東山之部三)」の正東山若王子の項に次の説明があります。 「妙見社 稲荷祠の下にあり」 |
[12] | 「京都坊目誌(下京第十五學區之部)」に祇園町南側の妙見堂ノ址の記述があり、現在の仲源寺内には北辰妙見大菩薩の祠があります。 これらの可能性も考えられますが、位置的にやや西へ外れているように感じます。 |
[13] | 「論」と「輪」の字の違いはありますが、同一寺院と推測しています。 「京町鑑(横町)」の川東之部法観寺門前八坂上町の項に以下の記述があります。 「此町(=八坂上町)八坂の塔有 北側中程に十輪院と云真言の寺有」 |
[14] | 「花洛名勝図会(東山之部六)」に次の説明があります。 「一心庵 三年坂の北東側にあり 宗旨は日蓮宗 本法寺末寺なり ・・・ 妙見宮 北隣に有 共に灵(=霊)験あらたなり」 |
[15] | 「京都坊目誌(下京第廿一學區之部)」に次の説明があります。 「靑龍寺 五條橋東六町目東山通西入五町目境 北側四百八十九番地に在り。寺門南面す。日蓮宗頂妙寺に屬す。」 |
[16] | 明治32年(1899)の「政教中正論」49ページ❐に 「眞造庵(五條橋下)無本寺」と記されています。 また、天保2年(1831)の「改正京町繪圖細見大成」を見ると、五条大橋西詰の南(現・平居町)に「妙見」が描かれており、眞造庵の跡地に五条会館(五條會館歌舞練場)が建てられたと考えられます。 |
[17] | 〓は[]の[扌]偏を[方]扁に置き換えた[旅]の異体字らしき文字です。 |
[18] | 元治元年(1864)の出来事を記した「甲子雑録一」のp478〜479に「五月廿一日四條御旅所妙見宮傍ニ張紙」の記述があり、四条御旅所に妙見宮があったことが確認できます。 |
更新日:2024/02/05