丹後新四国八十八カ所 |
全国三十三カ所観音霊場および 全国八十八カ所霊場ご詠歌集 |
現在 | ||
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岩屋寺蔵『丹後新四国道中記』文化二乙丑年秋[1] | 京丹後市・宮津市 | ||
1 | 峰山 | 昌峯山増長院 | 増長院 |
2 | 峰山 | 安泰山常立寺 | 常立寺[2] |
3 | 峰山 | 光明庵 | 常立寺内 光明庵[3] |
4 | 峰山 | 全性寺 | 全性寺 |
5 | 峰山 | 御堂殿 | 御堂殿[4] |
6 | 丹後 | 相光寺 | 相光寺 |
7 | 矢田 | 長安寺 | 長安寺 |
8 | 和田野 | 西方寺 | 西方寺 |
9 | 溝谷 | 龍淵寺 | 竜淵寺 |
10 | 堤 | 宝蔵寺 | ★調査中[5] |
11 | 芋野 | 辻堂 | ★調査中[6] |
12 | 吉沢 | 雲滝寺 | 雲龍寺 |
13 | 小原 | 興法寺 | 興法寺 |
14 | 内記 | 林光寺 | 林香寺 |
15 | 新町 | 女御?の宮 | ★調査中[7] |
16 | 河辺 | 万休院 | 万休院 |
17 | 周松[8] | 薬師堂 | 浄名庵 |
18 | 周松[8] | 周徳寺 | 周徳寺 |
19 | 三重 | 金峰山万才寺 | 万才寺 |
20 | 府中国分 | 国分寺 | 国分寺 |
21 | 世屋山成相寺 | 成相寺 | |
22 | 日置 | 金剛心院 | 金剛心院 |
23 | 日置 | 禅海寺 | 禅海寺 |
24 | 宮津 | 如願寺 | 如願寺 |
25 | 岩滝 | 宗伝院 | 「龍泉寺 相伝院[9]」廃寺 |
26 | 石川 | 神宮寺 | 神宮寺 |
27 | 岩屋 | 雲岩寺 | 廃寺 ※ 跡地に雲岩庵 |
28 | 谷内 | 岩屋寺 | 岩屋寺 |
29 | 谷内 | 阿弥陀堂 | ★調査中 |
30 | 谷内 | 大師堂 | ★調査中 |
31 | 善王寺 | 三要寺 | 三要寺 |
32 | のりやす | 辻地蔵 | ★調査中 |
33 | 長岡 | 安穏寺 | 安穏寺 |
34 | 菅 | 常泉寺 | 常泉寺 |
35 | 安 | 渓禅寺 | 渓禅寺 |
36 | 西山 | 辻堂 | ★調査中 |
37 | 小西 | 禅定寺 | 禅定寺 |
38 | 新治 | 仏土山観音堂 | 十方院/一葉観音 |
39 | 慈明院 | ★調査中 | |
40 | 二箇 | 観音堂 | ★調査中 |
41 | 久次 | 辻堂 | ★調査中 |
42 | 五箇 | 慶徳院 | 慶徳院 |
43 | 五箇 | 笛原寺 | 笛原寺 |
44 | 鱒留 | 全徳寺 | 全徳寺 |
45 | 佐濃 | 光明山極楽寺 | 極楽寺 |
46 | 小桑 | 瑞龍山雲松寺 | 廃寺[10] |
47 | 野中 | 上野山野中寺 | ★調査中 |
48 | 観音堂 | ★調査中 | |
49 | 円頓寺 | 大沼山[11]大聖院 | 円頓寺 |
50 | 女ぶ | 定心庵 | ★調査中 |
51 | 一分 | 極楽山泰平寺 | 泰平寺 |
52 | 長留 | 延命寺 | 延命寺[12]
※ 嘉永年間(1850)、現在地へ移転 |
53 | 長留 | 長善寺 | 延命寺[12] |
54 | 海士 | 宝珠寺 | 宝珠寺 |
55 | 海士 | 一乗院 | 廃寺[13] |
56 | 油池 | 大師堂 | 廃絶?[14] |
57 | 甲山 | 熊野山甲山寺 | 甲山寺 |
58 | 久ミ浜 | 霊島山[15]本願寺 | 本願寺 |
59 | 久ミ浜 | 神谷寺 | 廃寺?[16] |
60 | 久ミ浜 | 円照寺 | 円照寺 |
61 | 久ミ浜 | 大円寺 | 廃寺 |
62 | 久ミ浜 | 宝珠山如意寺 | 如意寺
※ 昭和39年(1964)、現在地(末寺大円寺跡)へ移転 |
63 | 浄土山遍照院 | 「迎接寺塔頭 遍照院[17]」廃寺 | |
64 | 上野 | 中性院 | 中性院[18]
※ 明治5年(1872)、現在地へ移転 |
65 | 浄大山[19]迎接寺 | 遍照寺[20] | |
66 | 蓮光院 | 遍照寺[20] | |
67 | 宝珠院 | 「迎接寺塔頭 宝寿院[17]」廃寺 | |
68 | 正覚院 | 「迎接寺塔頭 正覚院[17]」廃寺 | |
69 | 知足院 | 「迎接寺塔頭? 知足院[17]」廃寺 | |
70 | 須田 | 乗禅寺 | ★調査中 |
71 | 関 | 永徳寺 | 永徳寺 |
72 | 三分 | 善福寺 | 善福寺 |
73 | 上野 | 覚性院 | 中性院[18] |
74 | 切畑 | 辻堂 | ★調査中 |
75 | 郷 | 明光寺 | 明光寺 |
76 | 郷 | 庚申堂 | ★調査中 |
77 | 公庄 | 念仏庵 | ★調査中 |
78 | 生の内 | 生野山大慈寺 | 大慈寺 |
79 | 石丸 | 孝嶽庵 | 孝嶽庵 |
80 | 石丸 | 峯の堂 | ★調査中 |
81 | 中禅寺 | 吉祥院 | 吉祥院 |
82 | 橋木 | 西明院 | 縁城寺[21] |
83 | 橋木 | 十輪院 | 「縁城寺塔頭 十輪院[22]」廃寺 |
84 | 橋木 | 弥勒院 | 「縁城寺塔頭 弥勒院[22]」廃寺 |
85 | 橋木 | 不動院 | 「縁城寺塔頭 不動院[22]」廃寺 |
86 | 橋木 | 「縁城寺塔頭 心王院[22]」廃寺 | |
87 | 橋木 | 多宝塔 | 縁城寺 多宝塔下重[23] |
88 | 橋木 | 発信貴山千手院 | 縁城寺[21] |
[1] | 文化2年は西暦1806年です。 |
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[2] | 常立寺はもと真言宗の「玉葉(養)山光明寺」という寺院で、延宝4年(1676)頃に「安泰山常立寺」へ改称しました。 |
[3] | 峰山町白銀へ移されていた光明庵は、文久元年(1861)に再び常立寺境内へ移されました |
[4] | Googleマップには「御堂殿」として石仏群を納めた小堂の写真がアップされています。 かつてはここに草庵かお堂があったのかもしれません。 |
[5] | 京丹後市丹後町岩木にある宝蔵寺を推定していましたが、所在地が「堤」ではなく前後の霊場から離れすぎていることから、別と考え直しました。 現在の堤区にある寺院は徳昌寺だけです。 |
[6] | 京丹後市弥栄町芋野にある芋野阿弥陀堂かもしれません。 |
[7] | 京丹後市峰山町新町にある新町の祠かもしれません。 |
[8] | 「周枳(すき)」の誤植と思われますが、原文のまま「周松」と表記します。 |
[9] | 「与謝郡誌(1923)」P146❐の板列(いたなみ)稲荷神社の項に以下の記述があります。 「岩瀧町字岩瀧小字板列鎮座指定村社、・・・舊と修験、龍泉寺、相傳院の鎮守として吒吉尼天(だきにてん)稲荷を祀りしも、再三祝融に罹りて寺院廢れ山伏僅かに命脈を繋ぎ、・・・」 |
[10] | 「京都府熊野郡誌(1923)」P527❐の瑞龍山雲松寺の項に以下の記述があります。
「當山舊記を按ずるに、往古は天台宗権現寺といひ黒瀧靑池がナルニ在り、・・・寛永五年雲譽智白和尚を請じ、小桑に伽藍を建立し、改宗寺號を改めて瑞龍山雲松寺と號せり、・・・」
雲松寺跡(京丹後市久美浜町小桑前田)にあるタラヨウ(通称「葉書の木」)❐は、京丹後市の指定文化財になっています。 |
[11] | 「大治山」の誤植と思われますが、原文のまま「大沼山」と表記します。 |
[12] | 現在の延命寺境内にあった高尾山長善寺が天保10年(1839)に焼失し、愛宕山の山麓にあって旧跡となっていた楊柳山延命寺と併せて、高雄山延命寺として嘉永年間(1850)に再建されました。 |
[13] | 「京都府熊野郡誌(1923)」P450❐に以下の記述があります。 「大字海士には小字七谷に一乗院の跡あり、北の坊にして現今寶珠寺に一乗院の木額を存せり。」 |
[14] | 「京都府熊野郡誌(1923)」P438❐の大師堂の項に以下の記述があります。 「元城山の麓に在りて明照庵といひしが、明治四十二年現地(=海部村大字油池小字中地)に移轉し大師堂と唱ふ。」 |
[15] | 「鴫」を「嶋」と読み違えた誤植と思われますが、原文のまま「霊島山」と表記します。 |
[16] | 「京都府熊野郡誌(1923)」P388❐の醫王山神谷寺(しんこくじ)の項に以下の記述があります。 「當山は元神谷神社の別當にして、寺號亦社名と同じく、益々興隆に趣けるなり。」 2011年8月7日に京丹後市久美浜町神谷(かんだに)の旗指(はたざし)神社前で開催された「懐かしい写真」展で、約60年前の神谷寺の写真が展示されました。 |
[17] | 「京都府熊野郡誌(1923)」P689❐の淨土山迎接寺(こうじょうじ)の項に以下の記述があります。 「當山寺運益隆昌歸依するもの多く、寺内寶壽院蓮光院遍照院中性院正覺院等の六院を有せりといふ。今蓮光院を存するのみなり。」 |
[18] | 現在、中性院のある場所には、元々薬王寺覚性院がありました。 無檀家の覚性院は、明治5年(1872)に迎接寺(こうじょうじ)(現・遍照寺)塔頭の中性院を移したことにして、廃絶を免れました。 |
[19] | 「浄土山」の誤植と思われますが、原文のまま「浄大山」と表記します。 |
[20] | 昭和13年(1938)に真言宗大覚寺末迎接寺(こうじょうじ)が塔頭の蓮光院と合併して、遍照寺になりました。 |
[21] | 明治20年(1887)、縁城寺塔頭の西明院が縁城寺の名称を継ぎました。 |
[22] | 「京都府の地名」P787の縁城寺の項に以下の記述があります。 「明治四年(一八七一)には十輪・不動・心王・弥勒の四院は無住となっており、西明院に合併された。」 |
[23] | 現在の多宝塔は天保5年(1834)に建立されたものですが、昭和38年(1963)の豪雪で上重が倒壊し、初重の上に仮屋根がかけられた姿で残っています。 |
更新日:2021/06/24