瓶原(みかのはら)三十三所 | 加茂町史 第二巻 原典:瓶原古今志(黒田家文書) 寛保2年(1742) |
享保17年(1732)以前に開創。 一郷内だけを巡拝する非常にコンパクトな霊場で、札所には仏堂や辻堂が含まれ、本尊も観音に限らず阿弥陀や地蔵が含まれています。
加茂町史 | 現在 | |||
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寺院名 | 所在地 | 備考 (七墓参り[1]を含む) |
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1 | 海住山寺本堂 | 仏生寺 | 海住山寺 本堂 | |
2 | 〃 観音堂 | 〃 | 廃絶[2] | |
3 | 〃 奥之院 | 〃 | 海住山寺 奥の院[2] | |
4 | 〃 宝篋院 | 〃 | 海住山寺 本坊(宝篋院)[2][3] | |
5 | 〃 不動坊 | 〃 | 「海住山寺塔頭 不動坊[2]」廃寺 | |
6 | 〃 西方院 | 〃 | 「海住山寺塔頭 西方院[2]」廃寺 | |
7 | 〃 閑照院 | 〃 | (不明) | 「海住山寺塔頭 閑照院[2]」廃寺 |
8 | 〃 宝蔵院 | 〃 | 「海住山寺塔頭 宝蔵院[2]」廃寺 | |
9 | 〃 摩尼珠院 | 〃 | 「海住山寺塔頭 摩尼珠院[2]」廃寺 | |
10 | 〃 西之坊 | 〃 | 「海住山寺塔頭 西ノ坊[2]」廃寺 | |
11 | 〃 池之坊 | 〃 | 一番 海住山之墓 | 「海住山寺塔頭 池ノ坊[2]」廃寺 |
12 | 大福寺 | 〃 | 廃寺[4][5] | |
13 | 仏生寺 | 〃 | 廃寺?[4] | |
14 | 大雲院 | 口畑 | 「大雲寺」廃寺?[4][6] | |
15 | 阿弥陀寺 | 奥畑 | 二番 奥畑之墓 | 廃寺[4][7] |
16 | 上之庵 | 〃 | ★調査中 | |
17 | 神宮寺 | 井平尾 | 廃寺?[8] | |
18 | 東福寺 | 〃 | 三番 井平尾之墓 | 廃寺[4][9] |
19 | 辻堂 | 岡崎 | 四番 岡崎之墓 | ★調査中 |
20 | 長福寺 | 〃 | 廃寺?[4] | |
21 | 林泉寺 | 〃 | ★調査中 | |
22 | 法泉寺 | 河原 | 法泉寺[10] | |
23 | 正念寺 | 〃 | 廃寺[4][11] | |
24 | 西念寺 | 〃 | 廃寺[4][11] | |
25 | 田福寺 | 西 | 五番 河原村之墓[12] | 廃寺?[4] |
26 | 鴬滝寺 | 〃 | 六番 西村之墓 | 鴬瀧寺 |
27 | 願応寺 | 〃 | 七番 法花寺之墓 | 廃寺[13] |
28 | 心光庵 | 〃 | 廃寺[13] | |
29 | 法性寺 | 東 | 廃寺?[14] | |
30 | 海蔵院 | 登大路 | 「海蔵寺」廃寺?[14] | |
31 | 安養寺 | 〃 | 廃寺?[14] | |
32 | 貞福寺 | 〃 | 廃寺?[14] | |
33 | 国分寺 | 〃 | 国分寺 |
[1] | 七墓(ななはか)参りとは、陰暦7月16日の宵から翌日の夜明けにかけて、鉦(かね)・太鼓をたたきながら7か所の墓地を巡拝する風習で、主に大阪とその周辺地域で行われていました。 |
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[2] | 「勅願所海住山絵図」には海住山寺の多くの塔頭が描かれています。 一方「都名所図会(巻之五)」では海修山寺(=海住山寺)の塔頭はほとんどなく、わずかに「奥院」と「宝蔵院」程度しか描かれていません。 |
[3] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、隨心院の末寺として「寶篋院」(現在の海住山寺本坊)が記されています。 |
[4] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、隨心院の末寺として各寺院(いずれも無住)が記されています。 |
[5] | 「京都府の地名」P70の仏生寺村の項に以下の記述があります。 「村内にあった真言宗大福寺は、江戸時代初期の浄土宗の僧袋中ゆかりの寺といわれ、手植の松が伝えられていたが、明治初期に海住山寺に合併された。」 |
[6] | 口畑の会所の大雲寺には地蔵菩薩が祀られており、地蔵盆が行われるというWeb情報がありました。 |
[7] | 「京都府の地名」P69の奥畑村の項に以下の記述があります。 「真言宗阿弥陀寺があったが、明治初期に本山の海住山寺に合併した。」 |
[8] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派の無本寺として(井)平尾村の「神宮寺(無住)」が記されています。 |
[9] | 「京都府の地名」P72の井平尾村の項に以下の記述があります。 「村の東に春日神社があり、南には真言宗の東福寺があったが、明治初年に海住山寺に併合された。」 昭和53年(1978)に井平尾区民の浄財によって改築された建物があり、楊谷寺の千手観音菩薩の分身が安置されているようですが、寺院としては廃寺になっているようです。 |
[10] | 浄土真宗の寺院が霊場に組み込まれることは通常ないのですが、位置的に間違いはなく、恐らく改宗されたものと思われます。 |
[11] | 「京都府の地名」P71の河原村の項に以下の記述があります。 「ほかに海住山寺末の正念寺・西念寺があったが、明治初期に本地に合併された。」 西念寺跡には石仏の地蔵尊を祀る地蔵堂が残されています。 |
[12] | 村名が異なり行ずれのような気もしますが、原文のまま表記します。 |
[13] | 「京都府の地名」P71の西村の項に以下の記述があります。 「この滝に寺名をちなむ浄土宗鶯滝寺は、・・・。明治期(1868-1912)に同地の心光庵・薬師堂(=願応寺?)を合併した。」 願応寺の薬師如来像と地蔵菩薩立像は鶯瀧寺の薬師堂に移され祀られています。 |
[14] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派の無本寺として各寺院(いずれも無住)が記されています。 |
更新日:2015/06/06