南山城三十三所 | 海住山寺雑記録 宝暦6年(1756) |
貞享(1684-88)の頃、東光寺の如範により発願開創されましたが、その後廃れ、天保6年(1835)に復興されました。
海住山寺雑記録 | 現在 | |||
---|---|---|---|---|
一番 | 瓶原 | 真言宗 海住山 本堂 |
十一面觀音 | 海住山寺 |
二番 | 同所 | 老宿坊 | 十一面 | 海住山寺 奥の院 |
三番 | 賀茂 | 日蓮宗 東明寺 |
千手又六觀音六尺 | 「燈明寺」廃寺[1] |
四番 | 賀茂 | 天台律宗 常念寺 |
十一面觀音三尺五寸 | 常念寺 |
五番 | 此寺退転 觀音寺 |
聖觀音一尺五寸 | 廃寺 ※ 元禄時代? |
|
六番 | 鹿背山 | 真言 浄性寺 千手堂 |
[長]三尺五寸 行基𦬇[2]作 |
「浄勝寺」廃寺[3] /観音像は西念寺へ
※ 明治5年(1872) |
七番 | 上津 | 律宗 誓願寺 |
十一面三尺 | 誓願寺 |
八番 | 木津 | 觀音堂 | 聖觀音三尺三寸 | 「木津観音堂」廃絶[4] |
九番 | 市坂 | 動佛 | 十一面石佛五尺 | 動観音堂 |
十番 | 相樂 | 蓮花山 法泉寺 真言宗 |
十一面二尺八寸篁作 | 法泉寺 |
十一番 | 祝園 | 禅宗■■ 禅福寺 |
十一面二尺五寸 | 禅福寺 |
十二番 | 南稲八妻 | 真言宗 願成寺 |
十一面一尺五寸 | 廃寺 /観音像は蓮台寺へ
※ 明治7年(1874) |
十三番 | 北稲八間 | 真言宗 觀音寺 |
十一面五尺 | 観音寺
※ 明治4年(1871)、現在地へ移転[5] |
十四番 | 北稲八間 | 此寺退転 岡本寺 |
十一面二尺五寸 | 廃寺 /観音像は観音寺へ
※ 明治初年 |
十五番 | 下狛 | 真言 神宮寺 鞍岡 |
十一面坐像八寸 | 「神宮寺」廃寺[6] |
十六番 | 下狛 | 僧坊村 若王寺 浄土宗 |
千手二尺五寸 | 若王寺 |
十七番 | 菱田 | 長福寺 觀音堂 |
十一面二尺八寸 | 「長福寺」廃寺[7] /観音像は西方寺へ |
十八番 | 宮ノ口 | 觀音堂 | 十一面五尺九寸 | 法雲寺[8] |
十九番 | 山本 江津宮 |
惠日寺 | 千手六尺二寸 | 廃寺[9] /観音像は寿宝寺へ |
廿番 | 出垣内 | 浄土宗 念佛寺 |
聖觀音一尺 | 念仏寺 |
廿一番 | 普賢寺 | 大御堂 | 十一面六尺 | 観音寺 |
廿二番 | 興戸 | 觀音寺 | 聖観音二尺一寸 | 廃寺[10] /観音像は寿命寺へ |
廿三番 | 髙木 | 浄土宗 日光寺 北谷 |
聖觀音八寸 | 日光寺 |
廿四番 | 飯岡 | 真言 蓮花寺 |
十一面一尺二寸 | 「蓮華寺」廃寺[11] ※ 明治8年(1875)、寿宝寺に合併 |
廿五番 | 井手 | 真言 東福寺 水成宮寺之内 |
聖觀音一尺三寸 | 「東福寺」廃寺[12] /観音像は西福寺へ
※ 明治5年(1872) |
廿六番 | 井手山 | 栄福寺 觀音堂 |
千手四尺四寸 | 「栄福寺」廃寺[13] /観音像は地蔵院へ |
廿七番 | 石垣 | 真言 觀音寺 |
十一面[二]尺[一]寸 | 廃寺[14] /観音像は西福寺へ
※ 明治6年(1873) |
廿八番 | 綺田 | 光明山 國見 | 聖觀一尺八寸 | 国見観音堂[15] |
廿九番 | 綺田 | 普門山 蟹滿寺 | 聖觀二尺[五]寸 | 蟹満寺 |
卅番 | 平尾 | 福應寺 大堂 |
十一面二尺五寸 | 「福王寺」廃寺[16] /観音像は十輪寺へ |
卅一番 | 北吉野山 | 真言 神童寺 |
聖觀五尺 | 神童寺 |
卅二番 | 狛 | 真言宗 松尾寺 |
聖觀音二尺五寸 | 「伝興寺」廃寺[17] |
卅三番 | 狛 | 泉橋寺 | 聖觀音一尺二寸 | 泉橋寺 |
行程自海住山至泉橋寺十里三十四丁
右卅五首之歌ハ綺田東光寺如竹[18]法印所詠也
正德三癸巳八月七日時正巡拜了同行九人
|
||||
注)海住山寺雑記録には行程の距離とご詠歌も書かれていますが、ここでは省略しました。また、灰色文字は追記された部分で、書かれた時代は複数ありそうです。 |
[1] | 燈明寺は木津川市加茂町兎並(うなみ)寺山の御霊神社(燈明寺の鎮守)横にあった日蓮宗の寺院で、本堂と三重塔は大正時代に横浜市の三渓園に移築されて現存しています。 江戸時代に宗派が変わった際に東明寺から燈明寺に改名されたようです。 |
---|---|
[2] | 「菩薩」から草冠二つを取って縦に並べた略字で、「ササ菩薩」と呼ばれています。 |
[3] | 浄勝寺は木津川市鹿背山鹿曲田にあった寺院で、跡地は鹿背山会館になっています。 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派の無本寺として鹿背(山)村の「浄勝寺(無住)」が記されてます。 |
[4] | 木津川市木津清水の木津惣墓(そうばか)五輪塔付近にあった長福寺(木津川市木津大谷)の観音堂と考えられています。 五輪塔脇にある長谷寺式十一面観音石仏を観音堂本尊とみる意見もあるようです。 |
[5] | 元は現在の北稲八間集会所の場所にありましたが、明治時代に寺が当時の役場となり境内に小学校が建てられることになったため、廃寺となっていた岡本寺跡に移転しました。 |
[6] | 精華町HPの情報❐によれば、神宮寺は相楽郡精華町下狛長芝にある鞍岡神社の3つあった神宮寺のうちのひとつでした。 神宮寺の本尊だったと思われる十一面観音坐像は若王寺の大師堂に安置されています。 |
[7] | 長福寺は相楽郡精華町菱田十ノ坪にあった寺院で、跡地は菱田集会所になっています。 |
[8] | 白山神社の神宮寺だった法雲寺が明治初年の神仏分離で廃寺となり、その遺仏が西念寺に移されました。 西念寺は平成27年(2015)1月に本堂を建て替えて法雲寺と改称。6月には35年ぶりに十一面観音立像が寄託先の京都国立博物館から戻り、本堂に本尊として祀られています。 |
[9] | 「田辺町近代誌(1987)」P780の恵日寺の項に、京田辺市宮津佐牙垣内にある佐牙(さが)神社の神宮寺だった恵日寺が明治初年の神仏分離で廃寺となり、寺宝は寿宝寺と正福寺へ移されたことが記されています。 |
[10] | 観音寺は京田辺市興戸宮ノ前にある酒屋神社の神宮寺でしたが、神仏分離によって明治初年に廃寺となりました。 |
[11] | 「田辺町近代誌(1987)」P777-780の蓮華寺の項に、明治8年(1875)2月に寿宝寺と合併して蓮華寺が廃寺となり、寺宝は寿宝寺と阿弥陀寺(飯岡)へ移されたことが記されています。 |
[12] | 東福寺は綴喜郡井手町井手玉ノ井にあった寺院で、跡地は玉川保育園になっています。 (参考:井手町議会だより第46号❐) 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派勧修寺の末寺である西福寺末として井出(手)村の「東福寺(無住)」が記されています。 現在、旧東福寺の本尊だった薬師如来座像は西福寺に安置されています。 |
[13] | 栄福寺は綴喜郡井手町井手東垣内の玉津岡神社境内にあった寺院です。 (参考:井手町議会だより第46号❐) |
[14] | 西福寺の旧HPには旧観音寺の観音菩薩像のことが書かれていたのですが、、、新HPには見当たりません。 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派の無本寺として石垣の「観音寺(無住)」が記されています。 |
[15] | 木津川市山城町綺田周辺にあった光明山寺塔頭の遺仏といわれる観音菩薩立像が安置されています。 |
[16] | 福王寺は涌出宮(木津川市山城町平尾里屋敷)の東100mほどのところにあったとされていますが、正確な位置は不明です。 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、真言宗古義派の無本寺として平尾村の「福王寺(無住)」が記されています。 |
[17] | 木津川市山城町椿井松尾にある松尾神社の神宮寺で、松尾山角之坊伝興寺という名の真言宗の寺院でした。 |
[18] | 原文には「如竹」と書かれていますが、「如範」のことのようです。 |
更新日:2018/10/31