吉祥院天満宮詳細録 第六章 p180 - 187
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さる程にようよう我御あやまちなることをしろし召して猶も御崇[1]のあらんことを恐れ給い延喜廿三年四月廿日大宰府へ勅使をたてられ菅公を本官右大臣に復し一階を進めて正二位を贈り奉り昌泰四年正月左遷の勅書ならびに其時の内外記諸家の記録をすべて焼捨てさせ給えり、其の御詔に曰く。

『故大宰権帥従二位菅原朝臣在朕童蒙其侍読自従宸官之日至干宸位之朝久為近臣勤苦而身従謫官命殞遐鎮多歳何有相忘故贈本職兼増一階爰示旧意以慰幽霊云々』と

これと同時に御子達も元の如く官位を復し朝庭に仕えしめ給いければ皆々此吉祥院御本邸に帰り給いて代々此の地より朝庭に御出仕なりされば此の処は菅家累代の御領土と共に御住地たり。 又菅霊を祀り給いしより菅家の御裔社務職となり、吉祥天女院の別当を兼ね或は筑紫安楽寺の別当となり或は北野の別当や長岡天満宮の社務職も兼ね等して今日に至る。

昌泰四年[2]閏四月十一日改元ありて延長元年とぞ申ける かくて人々菅公の御霊も鎮り給うべきにやと思いけるに積鬱憤怒いささかなごませ給うこともなく、荒びにあらびて災害こそは続きにけれ、 時平公の一男大将保忠次男中納言敦忠といえるも俄に早世したまえり。 皇后狂病を受け給いしが浄蔵貴所の護神法加持にて御平癒なり。

延長二年天皇如意輪軌を増命に受け給う。 同三年六月天皇瘧病にかかり給いしかば増命御加持にて宮中にありしが白中鬼が御殿に下りて去るを見る。 此夏大旱、 同四年五月皇后御難産なれば尊意を召して不動法を修せしめ給いしが明且[3]皇子御平誕即村上帝也。 同六年疫病流行翌年京畿地方殊に甚し秋八月京師大水田畠濫流溺死多。

同八年六月廿六日旱に依て公卿殿上に集り請雨のことを評定ありける折ふし午の三剋愛宕の山上に黒雲一村[4]起ると見えしが俄に大雨降りて雷鳴夥し、諸卿思いかけずおわするに大雷一声清涼殿のの柱の上に落たり。 大納言清貫装束に火付て臥まろびおめき叫べども消ずついに焼死けり。 右中弁[5]顔やけて柱の本に例[6]れ臥て其侭死けり、是茂朝臣弓をとりて立向はんとするに忽に蹴ころされ、美奴忠兼も焼死せり、紀蔭連火焔に咽びて悶絶し、スミ宗仁に膝やけて倒れふし其余半死半生の人十二三人ばかりなりしとぞ。 是則ち天満大自在天神第三の使者火雷火気毒玉の仕業なり。 此時雷火の毎気忝くも聖体に入て御不予となれり帝恐れさせ給いて玉座を常寧殿にうつし法性房を請じて様々護持をつとめしめ給えり。 同九月廿二日御位を東宮に譲り廿九日崩じ給う在位三十三年御宝算は四十六。 醍醐天皇延喜の帝と申しあげ、仁徳天皇と並び御聖徳類いなき有難き御政治は何人も感じ奉る帝なるに、かかる事の有りし事は畏しとも畏き極みなり。

朱雀天皇承平元年六月八日大雪なり 同二年平将門東州同四年五月二十七日大地震十月追捕海賊同月二十九日東大寺西塔雷火にかかり又法隆寺火災にかかる。

其頃日蔵上人とて道徳いみじき僧ありけり 朱雀天皇承平四年四月十六日より芳野の奥の笙の窟に籠りて行いけるが八月朔日頓死して十三日蘇生し給えり 其の間に蔵玉[7]権現の善巧方便にて菅公ならびに延喜の帝にあい給いて御誓願ありしことを帝に奏上いたしければまさまざ[8]の御追善をいとなみ給えり。 吉祥院天満宮の創祀は此時なり詳細は後に記す。 又此時千本の卒土婆を朱雀通の北、洛北に建て御菩提を吊らわれしより千本通りと称するに至る。 同七年四月大地震あり。 天慶五年七月十二日西の京七条に住る賤の女文子アヤコと云る童女に御託宣ありて云、 我むかし世に有し時毎度北野に遊びて彼地の幽閑なることを愛す。 我筑紫に流されてより都に返らんことを思う、 右近の馬場のほとりに社を建て立寄に便を得さすべしと云々 賤女なれば力及ばず我屋の傍に形ばかりの社を建て祭ること五ケ年なり 同十年三月十二日酉の刻近江国比良の社の禰宜ミワノ良種が子の太郎丸といえる七才の童に御託宣あり、 我は天神なり都に帰らんと思ふ心切なり、北野右近の馬場に社を構へて立寄に便を得さすべし。 但我移らんと思う処には一夜に松千本生べし 其所に社を造立すべし云々と されば神良種と北野朝日寺の供僧最珍、法儀鎮世、並文子等と力を合せて御託宣の如く一夜に松生じ一村[4]の森となりたれば同六年[9]九月勧請し奉る 今の北野社の起元なり。 時は村上天皇天暦元年のことなり。 かく社壇は成就しけれど小社なる事の御神慮に叶わざりけるにや程なく炎上す、再び作れども又焼失す、亦作れども又焼失す かくすること僅十三年間に五度なり。 此時藤原九条右大臣師輔公御信仰ありて我住んとて作られし新造の御殿を其侭北野へ御寄付あそばされ、廻廊末社より諸堂僧房に至るまで建増し許多の神宝を納め給う。 時平公の弟忠平公は讒奏に組せず御謫居中にも御音信しばしばにて時平公薨去の後は位人臣を極め御長生なり 御子師輔公は右の如く北野御造営神慮に叶いしか盛運隆昌子孫大いに繁栄す。 其の後十五年目に又々社壇炎上す、 仮宮を作りて七八年を送る程に内裏の御炎上三度におよぶ、 三度目の御造営の時大工等紫宸殿の天井の裏板をかんなかけてみがき置き明る朝行きて見れば少しすすけたる処あり、 あやしみて近より見れば虫喰て卅一文字をあらわせり。

作るとも又も焼なん菅原や
むねの板間のあわぬかぎりは、と

さては北野の御神慮より度々の火災はある事よとて円融帝恐れ思召しやがて北野の社御造営を始めらる、 此時より全く朝廷の御沙汰となりて結構美麗、加茂、八幡に劣らずなりたりとぞ。

貞元元年二月連夜鬼行、六月十八日未曽有地震不三年七月猛風羅城門倒

六十六代一条院の御宇正暦三年十二月太宰府安楽寺の禰宜藤原長子といえる女に御託宣あり其の一節に

家門一閉幾風煙 筆硯抛来九十年 我仰蒼天故事 朝々暮々涙漣々

同四年五月廿日左大臣正一位を贈奉らる宣命にへく[10]

天皇勅命聞坐宣追往尊旧褒食国良典なり 故是以追一位左大臣贈賜崇賜勅命差使申賜はくと宣。

勅使散位従五位下菅原朝臣〓正トモマサ[11]、太宰府に参向して宣命を読上るに案上に天神の示し給いける書あり。

忽驚朝使排荊棘 官品高加拝感成 雖仁恩覃邃窟 但羞存没左遷名

此度の贈官は受まじきの由なり依て大宮司安陪近忠、其由を注進して宣命を勅使に返し奉る、 勅使帰京して此趣を奏しけるに十月十九日大政大臣を贈奉らる。 此度の勅使は散位従五位下菅原為理なり 太宰府に参向して宣命を読上るに再び一首の詩を示し給う。

昨為北闕被悲士 今作西都雪恥尸 生恨死歓其我奈 須望足護皇基

此度ぞ神慮の鬱悒すべて晴たまえるものならんか、 此詩は一度も誦せん輩を毎日七度守護せんとぞ誓いましましけると承るける。 云々』

[1]「祟」の誤記と思いますが、原文通り「崇」と表記します。
[2]「延喜廿三年」(923年)の誤記です。昌泰4年は7月15日(901年8月31日)に改元されて延喜元年になりました。
[3]「明旦」(みょうたん: あすの朝、明朝)の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[4]「一群/一叢(ひとむら)」の意味だろうと思われます。
[5]「希」の誤記ですが、原文通り表記します。
[6]「倒」の誤記と思いますが、原文通り表記します。
[7]「王」の誤記ですが、原文通り表記します。
[8]「さま/゛\」「さまざま」の誤記ではないかと思うのですが、「まさ/゛\」を「まさまざ」と表記します。
[9]文章の流れから考えると、「同年」(天慶十年)の誤記と思われます。
[10]「へく」とは? 誤記のように感じますが、浅学のためわかりません。
[11]〓の漢字は[ ]です。

更新日:2021/01/23