吉祥院天満宮詳細録 第八章 p236 - 239
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(九)第百〇四代後柏原天皇の御宇朝庭より勅使を派遣して当吉祥院天満宮へ参拝せしめ給う一節に
『二水記 干中及和長記 干中
大永二壬午十一月二十二日早且[1]菅大納言(坊城)長者拝堂出任見物也路次様 行粧美麗なり

先如木雑色乗馬
次主人(小雑色八本四方輿力者舁
次布衣侍騎馬(大房継之水干(○虫食)之布衣紙色革白袴如恒)
次侍従扈従(束帯々剣四方輿)

デテ吉祥院北野社云々  秉燭之程参内田楽事也各申沙汰如例年云々

右記の如く第一に吉祥院天満宮に御参拝あらせられ然る後に北野社に詣でらるる例なりければ吉祥院天満宮にありては常に勅使の参向は午前中にて北野社へは御昼飯後或は夕刻若くは後日のことに定め給いしを見ても如何に吉祥院天満宮を御尊崇御鄭重に御取扱い遊ばされしかを押しはかるべし。

(一〇)同前『大永五年八月廿八日食後御霊社今月三月結願也  午後詣北野社云々
(一一)同前 干中
大永六年十一月廿一日早旦内侍所食後御霊北野社等午刻参伏見殿云々
(一二)同前 干中
大永七年三月一日云々詣御霊社北野社中院姉小路等同道也』
(一三)第百〇五代後奈良天皇の御宇朝庭より勅使御派遣のこと
『和長記二水記 干中
享禄三年庚寅九月七日早旦御霊北野社堂五辻同道也

右文中、御霊社、御霊、吉祥院とあるは皆当吉祥院天満宮のことにして当時は吉祥院御霊と申し御霊験あらたかなる三所御霊の一なり。 外記日記 干中『三所御霊とは西寺御霊堂と上和御霊堂と吉祥院也』とあり。

(一四)第百〇五代後奈良天皇は天満宮御神号を御宸翰ありて奉納し給えり。
(一五)第百〇八代後水尾天皇は吉祥院天満宮を特に御尊崇ありて、元禄四年[2]四月十二日神殿御造営正遷宮の際種々御奉納あり。
1、銀一貫二百九十目御奉納。
2、本社東鳥居額御神号を御宸翰ありて御奉納。今に存す。
3、天満宮御神号を御宸翰ありて御奉納。
4、御紋章入白御幕二張御奉納。
5、御紋章入提灯二張御奉納。
(一六)准后東福門院殿より天満宮唐門を御寄付。
元禄四年[2]四月十二日神殿御造営正遷宮の際。
(一七)仙洞様禁中様[3]より御簾二十間奉納。
(一八)仙洞様御参詣ありて御撫物奉納。
(一九)同正宮様御参詣ありて御撫物奉納。
(二〇)同沢宮様参拝ありて御撫物奉納。
(二一)桂宮一品知仁親王は菅公の御神影を御絵きありて御奉納。
[1]「旦」の誤記のような気がしますが、原文通り「且」と表記します。
[2]後水尾天皇は1680年没、東福門院も1678年没なので、元禄四年(1691)は年代が合いません。 原本p342に「菅公七百二十五年御忌に相當(当)す」とあるので、寛永四年(1627)の誤記と思われます。
なお、(二一)の桂宮一品知仁親王(八条宮智仁親王)も1629年没です。
[3]仙洞様と呼ばれた霊元天皇(1654-1732、在位:1663-1687)と東山天皇(在位:1687-1709)は元禄四年(1691)で年代が合います。 後水尾天皇・東福門院の情報と霊元天皇・東山天皇の情報が混ざり合っているようです。

更新日:2021/02/11