吉祥院天満宮詳細録 第九章 p240 - 246
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第九章 武将名士と吉祥院天満宮との関係

(一)吉祥院天満宮古記録 干中
日蔵上人笙の岩屋にてありし事どもを奏上せしと共に自ら菅公の尊像を彫刻して当吉祥院天満宮に納め給えり されば本殿に合祀せり。
(二)同前 干中
伝教大師以後叡山の僧侶方々代々参拝法要せらる。
(三)同前 干中
弘法大師はじめ東寺西寺の僧侶方々代々参拝法要せらる。
(四)弘法大師は唐木神鏡を自ら刻みて奉納あり。
『唐木神鏡は弘法大師入唐のみぎり唐土正竜寺に暫く御住職あり或夜三尊現れ給い大師に告げてのたまわく汝日の本より此地へ渡り心願満足なると、 種々御きやげありていずくともなく立去給いしかば御名残おしさのあまり此観世音薬師せいしの三尊を彫刻し帰朝後吉祥院社に納め給う』 と当社記録干中
(五)吉祥院天満宮御八講中詩歌法楽の際書詩体につきて
朝野群載 干中
『書詩体(北野、吉祥院廟、他社准之)
(七言三月尽日陪吉祥院聖廟、同賦古春方暮詩一首以某為韻並序官位朝臣名)』
詩体例を当社に採りたり 是れに依りても亦他の神社より先なることを示せり。
(六)本朝麗藻本朝文粋巻之十序丙詩序三聖廟 干中
『三月尽日陪吉祥院聖廟同賦古廟春方暮
江以言
廟基拓地欲百年之間家業継塵及七代之後 吏部大輔相公当三月之余潤五月之休暇故事於廊下春輝於廟前是貫首弟子大長秋納言其余受賚衒業之者左円右方之倫瀝中露下風済々焉煌々焉 以助聖廟之威儀以賁聖廟之風月蓋有以矣 相公策昇甲第高歩十六行中材却辛君永加三千徒之首即以槐市之棟梁遂為棘路之羽楚豈非先廟之余慶延及一家之後胤哉 方今芳年已尽花月将窮百花乱落叢柯之雪難留一日巳斜柏城之雲漸暗彼伍子江之波徒揚五葉之声 仙母山之花空開九株色吾霊廟金策頻加極人位於夜台之後素功遂立恣霊望於日域之中方配大祖之食永伝胎孫之慶 焉既而春夜欲朋望牛漢之西転夏日告朔指象魏而比轅以言性是愚魯雖鳥雲之嘲志猶思斉未蛍雪之業一生只楽道〓[1]万事自在廟意[2]長保元年閏三月廿九日聊記大概廟籍之巻末
時置犠楢鳳文春今宴廟門雲一門自有千年会遮莫花飛後鳥分』
(七)本朝文粋 干中
『七言春陪吉祥院聖廟同賦桜花残古社詩一首(以春為韻並序)
藤原敦基朝臣
都城之南有一廟宇草創承和左馮羽帰聖教以建精舎花飾昌泰右僕射重祖跡以崇霊祠水土叶竜虎之象 台殿足神仙之居 幽邃之境冠絶古今 僕将弘衆芸而開儒道尼父之在魯邦高第而歩台階 何必公孫之佐漢室彼両柱奠九原閉扃冥助被於神州之中威化及[3]於蛮服之外 長施一朝鎮護之徳 高加四海儀形之官 当土異域未此比 爰寺僧夢詩題氏族展宴席天下属文之士莫不靡然嚮一レ風猗乎盛哉 道之中興也 観夫古社年深芳蘭春暮桜樹列一レ於此処芳房残於其間枌楡滋以礙日孤行之雪遅銷松柏老以経霜半段之霞欲尽至粧勝群木彩異俗流余葩之留廟門矣 彭沢之五柳低頭晩蘃之薫仙窟焉綏山之一桃赥面者歟 既而漏箭声滴露酌酔酣令官之奏風操也 調雲和而未歇仙客之把羽衣也 乗是槎而欲敦基材幹疎而臨老従類櫟社之樹栄耀少而負春憗翫叢祠之花 唯仰神鑑之照順人謗之反一レ唇云爾』
(八)本朝文粋 干中 
『九日陪聖廟法花経詩一首並序
明衡朝臣
菅大相国者本是 皇家之偉器也 像偉材高早為風月之光輝鼎鉉任重能調塩梅之気味絶世之宏名可得而称者歟 彼公孫弘之登甲第鳳策於累葉之風春卿之廻金輿 空謝鴰卯於立槐之影 倩思先聖猶璅々焉 爰雲駕遄傕風儀永去以後振霊威於蒼穹之上神化於赤県之中 遂乃鞏洛之地更祠壇奚致丹襟 以仰玄応之者自東自西把昔巻 以期素葉之者或朝式暮是以大長秋源納言花堂於其処 鎮撃大法之鼓桑門於其中常吹三昧之螺 今当季秋重陽之節新開一乗八講之筵緇徒以翊慈雲墨客而鎮徳永 四果三英之輩拭竜轅永雄飛江左洛陽之才揮鳳筆而燕集今日佳会盛哉 大矣既而春玉五枝之灯頻佻玄碧数盃之河綏酌座上耆父私相語云 越水之広浪静丹瑩珠玉之光湖山之祠雲晴風伝弦当之曲 皆是事出霊異道乖菩提 豈如我聖廟法輪而日積禅定之窓松寒梵宇而身深経行之庭苔老 明衡萍実而思生涯西𡹛之景魂対菊蘃而隔栄路東籬之露涙推為唱首弥増原顔云爾
(九)中右記 干中
『第七十三代堀河天皇の御宇寛治六年三月廿八日今日有吉祥院聖廟 作文是寺僧依夢想告也』
(一〇)年中行事秘抄近代 干中
『二月廿五日御忌日事、自天仁二年夢告吉祥院之諸儒参入』とありて多くの儒者参詣ありしものなり。
(一一)同前 干中
『北野御忌日廿五日 二月の廿五日は天満大自在天神のかみあがり給いし御日なり夢のつげありて天仁二年より吉祥院にて八講あり菅家のともがら参て是を行う』 とありて菅家の後裔たるものは皆集り詣でて種々の神事にたずさわりしものなり、 明治維新前まで続けりと当社記録に見えたり。
(一二)吉祥院天満宮古記録 干中
足利尊氏将軍となるや当社天満宮神領として七百石の御朱印年々八講料として別に三百石を付せらる』 又足利義勝とも記す。
(一三)和長記 干中
大永二年壬午二月二十五日巳刻参内聖廟御法楽御連歌有之至三更二百韻里了』 とありて儒者僧侶等多く集りて詩歌法楽連歌の催しありかかること年々しばしばありき。
(一四)為記拾芥記 干中
延徳元年一長者拝堂事十一月十五日己巳菅宰相長直卿氏長者拝堂乃至参吉祥院先付客坊長者入上戸両侍従入東戸其儀式見次第云々 同日参向北野社云々』 とありて勅使参向と同時に氏長者人は更なり多くの儒者僧侶の参拝ありしを示す。
[1]〓は[日叟]に似た漢字です。
[2]「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。
[3]返り点「」の誤記と思いますが、原文通り表記します。 以下、返り点に関する記載漏れや誤記らしき箇所が複数ありますが、数が多いので注記を省略します。

更新日:2021/01/31