吉祥院天満宮詳細録 第十章 p323 - 331
|第十章 (7/20)|

一、同二十六日、百灯献備、大盆踊(雨天巡延)

○百灯献備は氏子総代、世話方中より献灯前日に同じ。

△大盆踊につきて、
此日は経費を要せざる大踊日として六斎太鼓と共に世に知らる。 此の大踊の起原は日夜天満宮の御加護により青々と繁れる稲やさまざまの作物の盛んに成育せる田面の姿を見。 又菅家二千石の領土の田畑なるを思いては当里人は先の労苦も打ち忘れ歓喜に耐えず男女老若夕方より神前の広場に集り礼拝終るや、音頭取りを中心に手なみ足なみ打ち揃えて感謝踊をなせしが起原となり遂には農村地方の娯楽の一ともなり今日にては豊年踊ともいう。 かの菅公讃岐の守として御在任あし[1]彼の地の人々菅公の御偉徳を慕い各家毎に菅公の霊を祭り今に毎年七月二十五日滝の宮踊として天神の祭あり。 御在任僅五年なるにかかわらず、かかるさまなり。 まして当地は平安遷都以来菅家累代の御領地にして御本邸を有し、菅公御誕生の地、加うるに勅命による菅神最初の天満宮の膝下に住し、日夜御神徳を蒙りつつある村民等の喜びは口筆に筆し難し、此踊もこれが現われなり。 されば饗して踊らしむるにあらず只菅御神徳を慕い奉る感謝人の集りなればなり。

一般盆踊としては他の地方には七月末或は八月上旬より始むれども当村は八月二十六日を過ぎざれば各部落に於て踊る者無し。 かかる有様なれば当日は他の町村は更なり、数里も離りたる遠隔の地より来り踊る者、見る者数知れず、前晩と等しく夜を明すが例なりしが今日にては時間を守りて正しく解散す。 今より四十年以前は大部女の踊手のみにて当村古有の優美なるものなりしが漸時男子が加わり且つ他地方の青年多くなりて現今にては本村の如きは其の一部を占むるのみなれば優美なる状は全く失せぬ。 音頭取も以前は当村より上手なる者多く出でて当日の如きは番を争うて音頭取台に上らんとする者数しれず、その中東条町の山崎惣左衛門氏の如きは杭打音頭取としても同氏より右に出づる者無かりきと。 音頭節にも以前はヂャッコラ節とか、さいもん音頭とかなりしが現時は江州音頭のみとなる。

以上の如く二十五日、二十六日の両日は当氏子の最大私祭日として他家に縁付ける者は必ず一家族打揃いて吉祥院天満宮に参拝し郷里に親む好機とし奉公に出る者も同様にして、正月や、盆の十五日、十六日には帰郷せざるも此両日のみは古より必ず帰郷する習慣となり、主家より休暇を得て帰郷する奉公条件の一なるを見ても如何に重大視せらるる日なるかを知るに足る。

一、同中旬毎年氏子総代、世話方集会して二十五日二十六日両日の行事につきて種々の協議を行う

一、九月九日 栗節句なれば大栗壱升を購入して両天末社へ奉る。

一、九月二十五日 月次祭、神饌献供の家凡百三十軒、千度礼拝、

○千度礼拝は西条町、北条町、東条町、政所町、毎に灯明料を納め子供と共に参拝す、其の際持参して奉りし御酒は頭屋に持ち帰りて戴き、頭屋にて調えし、握飯と、乾鱈、焼豆腐、小芋、こんにやく等の煮染にて腹を満たし大人には酒を添えて出す、是れも感謝礼拝なり、計費は各持寄りのこと。
此月北、東、西条の三部落の(政所町は東条と毎年合同)青年会は各吉日を選びて、千度礼拝を行う、その状は前記とほぼ同様なれど只煮染に代うるに鶏肉を以てす。

一、十月十三日 御例祭、北条町より神饌献備。 氏子各家より神饌献供(天溝[2]宮へ凡二百八十軒吉祥天女へ凡百八十軒)。 豆名月に当れば月次神饌以外に両天末社全部へ御鏡餅莢豆を奉る。

○十月十三日につきて、二日前より準備
十月は大同三年六月吉祥天女院御建立以来吉祥院悔過の修せられし月なり。
承和九年十月十七日は菅原清公卿の薨ぜられし日なれば此御忌日を以て毎年吉祥院悔過、法花八講会を修することに定まる。
且又御母公伴氏は貞観十四年一月十四日御逝去遊ばされしが御遺言に依りて観音像を御自刻になり、御父是善卿は[3]慶四年八月三十日に薨ぜられしが御生前の御遺誡により元慶五年十月二十一日より二十四日迄で御両親の御追福のため吉祥院法花会願文を作りて大法会を修せられ御自刻の観音像も吉祥天女院に安置し給えり。 是れより菅公は毎年十月十七日を以て菅家御先祖の御追福御法会日と定め給う。 されば菅公薨後も亦菅霊を祀り賜いし以後も変更せず之れを修せしなり但し二月廿五日は菅公の御忌日なれば特別なり。

十三日につきて。 御孝心深き菅公の事とて御父是善卿元慶四年八月三十日薨じ給いしより後は中秋の月見の会は御忌日なれば九月十三日を以て文人、詩人、知己及菅家の方々を招じて楽しく月見の宴を開かせらる此故事を引き天満宮並吉祥天女院の祭典法会日と定め種々の神事を執行し氏子の者も私祭日として観[4]族知友を招きて楽む日と定めたり。

○京羽二重織留巻之一 干中
『四季行幸  九月十三日 吉祥院祭』

○山城名跡巡行志五、干中
『吉祥院 例祭九月十三日 当村産砂

○京都叢書 日次紀事 干中

『九月十三日 △名月 今夜月倭俗謂豆名月良賤共煮莢豆而食之按今夜玩月也 其題詩所載藤原忠通公之詩足証如菅神之作也 在配所九月十五日偶見明月之者也 爾後妄以三字五字証者也 如兼好婁宿之説不信之今夜禁裏多有倭歌御会茄子献(神事)
△吉祥天女祭 吉祥院村東庄、西庄、北庄、交供御膳是善父清公之所勧請也 之有天神社伝是最初勧請菅神之地也 菅家第宅之跡云々
右の故事を以て十月十七日及九月十三日には毎年盛大なる祭典法会を執行せしが御歴代の帝も此月、日に勅使を差し立給うこと多く、当社にても古より十二三日頃より二十五六日に至る間に種々の事業を行い来りし古記録多きを見ても明かなり。 然るに天正の頃豊臣秀吉公の勘気に依り神領。御朱印等全部取り上しより一時に大衰し定日の御祭典法会も困難を来せし結果九月十三日を一月延し十月十七日を四月[5]繰り上げ毎年十月十三日を以て天満宮並吉祥天女院の最大の祭日と定めしならん。 依つて氏子の者も私祭として親族、知友を招きて楽む日とし、菅家の者は更なり叡山、東寺其の他の高僧も相集り吉祥院悔過、法華御八講会、詩歌法楽、大角力、六斎念仏太鼓等の奉納もありて明治維新前迄で行われしものなり。
かかる御日柄なれば北条町にては天神講頭屋に数日前より集り身を浄め力を尽し餅米三斗五升を搗き直径三寸五分大の鏡餅としこれを二つに切半して切口の方より巾五六分長さ七八寸の青竹(此竹材は当家より遣之)を挿し四百余個を作り高さ三尺余りの円形台に突挿し直径も高さも凡二尺五寸大の円垂形に調えたるもの二台作り又一方には最上等の柿の果実四百五六十個を以て前記と同様に調え共に桧の青葉を挿し添え、金箔を振り掛け他に御酒、小饅頭、煎餅を各一台宛早且[6]に持参天満宮と吉祥天女院に献備し午後三時頃撤饌する慣例なるが其起原詳かならず。 案ずるに吉祥院悔過御八講の際奉りし形状其儘を存するものとすれば実に古き神事なり。

又かかる大祭日なれば御例祭も此日に定めしなり。  十四、五、六日神供配り。

○御例祭、祈年祭、新嘗祭につきて、
例祭、祈年、新嘗の御祭は官祭にして奉幣使も派遣せらるる大祭なり、御社にとりては重大なる御祭なり、祈年祭は一年中種々大願成就をお祈りする日なり。 新嘗祭は諸願成就の御礼を兼ね新しく収穫せる種々珍物を神前に奉りて寿く日なり、例祭は一年に一度御神徳を仰ぎ奉り氏子崇敬者こぞつて御神慮を慰め奉る日なり、されば御当日は万事繰り合せて随時参拝すべきなり。 然るに一般には神輿渡御、競馬、御行列神事のある私祭即小祭を大祭と誤解せる者多きは遺憾とするところなり。
御祭典には神楽を初は加えしが都合により廃し祭員四人なりも三人とし横大路村の大島直重氏と小畑次郎氏とに主として御助勢を願いつつあり就ては御装束の拝借及御返却に使者を立てしが大正十年三月二十五日枯杉樹売却費を以て烏帽子、浅沓各組講[7]入して人足を廃止す。
奉幣使及同随行員の正服も昭和二年十一月二十三日の新嘗祭より新調されて使用することとなる。
明治初年村社に公定せられて御例祭を行い参りしが明治四十二年指定村社に公定せられて奉幣使を差立らるることとなり、神社財産及会計法会に摘要する神社となり、大正二年より祈年、新嘗の祭典を執行する令ありしなり。

京都叢書京羽二重織留巻之一日次紀事
   (延徳年間之記)干中
△吉祥天女祭 吉祥院村東庄、西庄、北庄、交供御膳是父清公之所勧請也 之有天神社伝言是最初勧請菅神之地也 菅家第宅之跡今為田名言七難田其謂疑難々之義乎』
△十月十七日忌日薨菅原清公忌、吉祥院創建之人而本尊吉祥天女、云々 新処自清公菅神為別荘菅公五十賀亦於此院被行之是代々為菅家伝領

一、同二十五日
月次祭同前 氏子中より凡三十数軒の神饌献備
 翌日神饌配り

[1]誤記かもしれませんが、原文通り表記します。
[2]「満」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[3]「元」の誤記ですが、原文通り表記します。
[4]「親」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[5]「日」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[6]「旦」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[7]「購」の誤記と思われますが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/11