吉祥院天満宮詳細録 第十章 p331 - 339
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一、十一月二十三日 新嘗祭
皇室におかせられても此日を以て新嘗祭を行わせらるる佳き日なれば之れにならいて定めしものなり。

一、十一月廿五日
月次祭 神饌献供同前

一、十二月八日
稲荷神社お火たき祭(初午祭にほぼ等し)

一、同二十五日
月次祭先月と同 御饌米集御神札配与

一、同二十八日
御鏡餅搗

一、同二十九日
両天末社御しめ飾

一、同三十一日
両天末社装飾 神饌献備の準備、夕刻大抜祭

一、十二月中に氏子即吉祥院村全戸へ御神札を配与することに定む、其の方法は役場を経て村長平塚繁次郎氏、氏子総代世話方町役方々の尽力に依る。

(三)現時吉祥院天満宮と氏子との関係
氏子即本村民は菅公の御高徳を崇慕し何事にも吉祥院天満宮を中心として行事して尊崇し誠実一貫忠孝を本とし堅忍持久業に当るを以て成功者多く正義を重んずる良習なれば氏子民一般の気風誠順にして犯罪者無く勤倹の美風ありて貧富の差少なく思想変動の今日にてもこれに染らざるは全く菅神の御徳に依るものなり。
本村小学校にても天満宮を中心とし帽子の徽章には梅花を用い偉人崇敬の的とし、四月初めには入学祭を年々行い来りしが本年度より神前に奉りし修身教科書を授与することとせり、 又二十五日には天満書を奉り、祭典執行日には全児童に参拝せしめ、二月二十五日の如きは毎年菅公会を催し常に菅公の御偉徳を講話し、修身、歴史、地理、国語等各学科に渉り連絡をとりて教養すれば早朝より個人参拝児童も増加す。
出征軍人及入退営者は必ず社頭に集り祈願を込むる例にして皆立派なる成績を以て帰郷す。
青年団の如きは六斎念仏太鼓の奉納や事ある毎に労力奉仕を為し旅行等の時には参拝し御守札を肌身に着て離さざる良風もあり。 且当氏子に生れて他に移住し又他家に縁付けるものと雖も終生否伝統的に吉祥院天満宮を崇敬して悉く大いに発展せられつつあり、石原磯次郎氏、石原広一郎氏、広田長三郎氏、岡尾磯次郎氏、増田組、松山金二郎氏、山下留吉氏等はその一例に過ぎず、かくの如き有様なれば御当社に特別修繕及最大祭あれば喜んで労力奉仕並物資の奉納ありて遠きも近きも参拝するを何よりの快事とせるは他の神社の比にあらず、 彼の一千年祭及此度の一千二十五年祭並毎年八月二十五日、六日の神事につきて見るも明かなり。
(四)菅公御左遷首途の際唐臼を搗く音の為めに御心を苦しめ奉りしは畏き極みとて其後里人は唐臼を搗くことを絶ちてより今日に至るも用うるものなし。
(五)菅公御左遷の途路河内の国土師の里(今の道明寺)に御姨君覚寿尼の住い給いけるに御暇乞のため立寄らせ御一宿ありし際夜の更くるも知り給わずたまたま鶏嗚[1]暁を報じけるを「啼ばこそ別れを急げ鳥がねの聞えぬ里のあかつきもがな」と詠まれて惜しき別れを告げ給いしは菅霊に畏ければ牡鶏を飼う事を慎み居れり、しかし幼牡は飼うとも歌えば他へ移す習慣なり。
(六)菅公は牛を愛し常に愛牛に召して庭上を散索し給いしより天神様の御使いものとして惨酷なる取扱をなさず、牛飼者は特に天満宮を信仰す、是がため当里人は元牛肉を食する者なかりしが現今は口にするとは雖も遠慮する風習あり、今に口にせざる固き人もあり。

1 山城名跡巡行志 干中

『吉祥院天満宮  牛の宮 在同所竹林南今棟の枯木あり由来不貞』

2 近畿歴覧記 干中

『吉祥院二千石悉く神領たり云々 菅原氏自天神六代目定義に子三人あり嫡子は菅原二男唐橋、三男石原、此の二十四代の末河内の今の社務なり東の馬場、昔は正月七日禁裏の女中交参詣車二両行通ほどの街ときこゆ今は社頭零落雨漏地湿不感歎[2]此の森の東の田間に牛巡と云大なる樹あり、 毎年五月五日吉祥院村飼人粧菖蒲於牛是を菖蒲角と云。 其の牛を牽き此の樹を巡こと三匝、 然して後各々携え来る角黍食此するときは年中牛に無病と云えり是より四塚みゆ云々』

◎ 万灯会につきて

菅公薨去以後五十年目若くば[3]二十五年目の御忌日毎には社頭に於て菅家や氏子の者は更なり親戚及崇敬者遠近より群参して各御灯明を献り御神霊を慰め奉りしものにして一万灯と限りしものにあらず許多の献灯にて数うるにいとまなき迄で多数なれば万灯と称えしものなり、 此の御忌年の当り年若くは前後の年又は御忌日二月二十五日の前後には三日以上百日に渡り献灯することも少なからずさればこれに関する会合も多ければ此会名を万灯会と称うるに至りしものなり、 かの御開帳も万灯会の一なり、 就ては平素の小修繕は時に応じて行い来るも二十五年や、五十年という久しき間には大修繕を要すべき箇所生ず、 されば之れを好期とし氏子の人々挙つて一年二年若しくは数年前よりこれが準備に怠りなく御神殿、吉祥天女堂末社及神苑参道の大修繕を行うものにして一生一代に度々相することを得ざる大祭なれば各自の業務をも労苦も打ち忘れひたすら氏神様への御奉公とて有らん限りの労力奉仕をなす古例なり、 然れども労力のみにて適わざる経費も少しとせず。 しかりと雖も天正十八年以前には社領の地も多々あれば何の不足も無く盛大に行われしかど豊臣秀吉公の勘気にふれ当社領土及御朱印並御八講等全部取り上げ北野社の方へ移せしより北野社は一層隆盛を極むるに反し当社は晴天一時に暗闇と変り全く手の付けようも無く衰頽し慶長七年の第七百年祭は先無事執行せしが寛永三年[4]の七百二十五年祭の節には力及ばず規模を縮め元和以前の盛時を夢に見て形ばかりの御祭典を修せしなり。 然れども手を束ねて傍観するに忍びず村民打ち寄り万灯会講とか、何百年忌御万灯会講とか、吉祥院天満宮御遠忌講とか、万人講とかを起して月掛や年掛貯金を成し或は天満宮、吉祥天女の御開帳等を行い準備金を作り又は崇敬者の寄付を仰ぎて諸事を完成し御神慮を慰め奉りて今日に至る、 然りと雖も御祭典期間には、皇家、菅家、親族を始め遠国の崇敬者も群参し種々の奉納物も多々ありき、 去る明治三十五年四月には七日間壱万灯宛毎日奉灯し約五千円の寄付金を以て神殿、堂宇末社の大修繕及神苑を拡げ池を掘り花樹を植え等して実に盛大なる一千年祭を執行し又一千二十五年祭は昨年なりしが御諒闇中とて一年延期し昭和三年四月二十四、五、六の三日間盛大なる祭典を執行す。 時にこれが経費も氏子及一般崇敬者の寄付を仰ぎしが半月余にして壱万余円を受くこれ全く御神徳のしからしむるところなり。 これを以て吉祥天女院御屋根の大修繕及天満宮神殿末社の修覆を行い境内を増加し、薮地(昔文章院跡)を開きて宝蔵庫雑具納屋を造立し御茶所と日清役記念碑を移転し神苑道路の境には石を積み花樹を増植し柵を設け一方にては御神供(菓子)記念扇子及同絵葉書を調成して寄贈者に贈呈する諸準備を整え毎日五千灯を朝夕に献灯して祭典を執行せしが参拝旁奉灯者もありて通計凡三万一千余灯を数う。 合せて府社に昇格し以て御神慮を慰め奉らんと本年九月十三日のゆかりあ[5]日に昇格申請書を府聴[6]に提出し[7]氏子挙つて準備おさおさ怠りなし。 吉祥院天満宮詳細録編纂も同記念事業たり。

[1]」の誤記と思われますが、原文通り「」と表記します。
[2]返り点「」が抜けています。
[3]「は」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[4]逆算すると七百二十五年祭は寛永四年(1627)のはずなんですが。
[5]「の」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[6]廳(聴)」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[7]残念ながら、府社(旧府社)には昇格できなかったようです。

更新日:2021/03/06