地蔵廿四ヶ所 京都順覧記 天保2年(1831)
京都順覧記 現在
壬生寺みふでら 縄目なはめ地藏
 みふ本尊
壬生寺/縄目地蔵[1]
万年寺まんねんじ 新德寺之内
 同所上ル
新徳寺[2]/屋葺地蔵(屋根葺地蔵)
光林くわうりん 水上みつのうへの地藏
 綾小路大宮西
光林寺/水上地蔵
勧学くわんがく 夢合ゆめあはせ地藏
 四条すゞめの森
更雀寺[3]/桶取地蔵
※ 昭和52年(1977)、中京区錦大宮町から現在地へ移転
休務きうむ 夢ちかひ地藏
 錦小路大宮西
休務寺
善想せんさう 子安地藏
 六角大宮西
善想寺/泥足地蔵(汗出し地蔵)
祐正ゆうしやう つま取地藏
 下立賣千本二丁西
祐正寺/妻取地蔵(娶妻結地蔵)
地藏院ぢざういん 田作たつくりの地藏
 紙川万日てら[4]
地蔵院/鍬形(くわがた)地蔵(昆陽野(こやの)地蔵)
淨福寺じやうふくじ  一条千本二丁東 浄福寺/引接地蔵(引摂地蔵)
長栄ちやうゑい 四辻地藏
 大宮一条二丁上ル
長栄寺
十一 石像じやくざう  千本五辻二丁上ル 石像寺/釘抜地蔵
十二 地藏ぢざう  千本寺中はしの坊 「上品蓮台寺子院 地蔵院(橋の坊)[5]」廃寺 /歯形地蔵
十三 蓮台れいだい  千本方丈 上品蓮台寺/延命地蔵
十四 興聖かうしやう  天神のづし 興聖寺/勝軍地蔵
十五 西林さいりん むくけの地藏
 同 天神前東へ入
西林寺/木槿(もくげ)地蔵
十六 三福さんふく 夢見地藏
 川東新地
三福寺/夢見地蔵
十七 聞名もんめう  同所 聞名寺/明眼(あけめ)地蔵
十八 矢田やた  寺町三条上ル 矢田寺/代受苦地蔵
十九 清帯せいたい 腹帯地藏
 寺町蛸薬師上ル
「清帯寺[6]」廃寺 /腹帯地蔵は西光寺
※ 明治6年(1873)、西光寺と合併
廿 了蓮れうれん 枕かへしの地蔵[7]
 同 錦小路上ル
了蓮寺
※ 明治34年(1901)、現在地へ移転
廿一 十住心じうじゆしん 染殿地藏
 四条道場之内
染殿院/染殿地蔵
廿二 仲源ちうけん 目やみの地藏
 同 縄手角
仲源寺/目疾(めやみ)地蔵
廿三 十輪じうりん 六はらの内 「六波羅蜜寺塔頭 十輪院[8]」廃寺 /夢見地蔵は六波羅蜜寺
廿四 六波羅密寺ろくはらみつじ 同 本堂脇立 六波羅蜜寺/鬘掛(かつらかけ)地蔵
[1]旧本尊の縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しましたが、令和2年(2020)に復元されました。 現在の本尊は昭和42年(1967)に唐招提寺から移された延命地蔵菩薩立像です。
[2]元文4年(1739)、北隣の万年寺など四寺を併合して新徳寺が建立され、万年寺の地蔵だった屋葺地蔵は新徳寺に引き継がれました。
[3]勧学院が改名して更雀寺となりました。 中京区西ノ京勧学院町は、藤原冬嗣によって創建された勧学院(藤原氏の大学別曹)の跡地で、錦大宮町へ移転する前の勧学院(寺院)があった場所と言われています。
[4]元禄9年(1696)の「京大絵図」を見ると、現在の地蔵院(椿寺)の位置に「万日寺」があり、当時はこの名称で呼ばれていたことが確認できます。
[5]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「レンダイジ」の近くに千本通に面して「ジゾウイン」があります。
また、元禄6年(1693)頃の洛中を描いた「洛中絵図」を見ると、「蓮寺」十二坊のひとつとして「橋ノ坊」が描かれています。
[6]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[7]宝永8年(1711)刊の「善悪因果集」の著者である蓮盛について以下のような記録があり、この説話から「枕返し」の名が付いたと推測しています。 「ある法師、同郷の人の助力によって、京都了蓮寺に勤めるが、次第に昔の苦しさを忘れ、ついに、東山辺の遊女に通うようになる。 了蓮寺の地蔵は法師の夢に現れて『出で去るべし』というが、そのまま日を送る。 地蔵はもう一度現れ、彼の右目を失明させる。 法師北野辺に隠れ住んで懺悔し、勇猛の念仏者となる」
[8]山州名跡志(巻之三)」の普陀洛山六波羅蜜寺の項に以下の記述があります。 「十輪院 在開山堂北 本尊 地蔵菩薩 坐像二尺五寸許」

更新日:2024/05/17