洛陽三十三所観音 京都順覧記 天保2年(1831)
京都順覧記 現在
六角堂ろくかくどう 六角東洞院西へ入 頂法寺(六角堂)
長金寺ちやうきんじ 蛸薬師の北となり 廃寺[1] /一言観音は誓願寺
※ 明治時代
革堂かうどう 寺町竹や町切通 行願寺(革堂)
下御霊しもごれう 同 北となり 下御霊神社 /観音像は成円寺[2]
新長谷寺しんはせでら 吉田山入口 新長谷寺
※ 明治時代、現在地へ移転
吉田寺きちでんじ 黒谷山内 廃寺 /吉備観音は金戒光明寺
※ 寛文8年(1668)、吉田中山の吉田寺廃寺
長楽寺ちやうらくじ 東山 長楽寺
七觀音しちくわんをん 下川原高台寺前 七観音院」廃寺?[3]
青龍寺せいりうじ 高台寺南のづし
 きやらのくわん音
青龍寺/伽羅観音
地藏院ぢざういん 清水山王前北がは 善光寺堂
十一 清水きよみづ奥院おくのいん きよみづ 清水寺 奥の院
十二 おなじく 本堂ほんどう 清水寺 本堂
十三 浅倉堂あさくらどう 同 本堂の西 清水寺 朝倉堂
十四 泰産寺たいさんじ 同 子安の塔 泰産寺
※ 明治43年(1910)、仁王門前から現在地へ移築
十五 六波羅ろくはら 松原建仁寺町東 六波羅蜜寺
十六 愛宕寺おたきでら 六はらの西 愛宕念仏寺/厄除千手観音
※ 大正11年(1922)、現在地へ移転
十七 蓮花王院れんげおうゐん 大仏三十三間堂 蓮華王院(三十三間堂)
十八 善能寺ぜんのうじ 泉涌寺 善能寺
十九 觀音寺くわんおんじ 今熊野 今熊野観音寺
二十 泉涌寺せんゆうし 楊貴妃観音 泉涌寺/楊貴妃観音
廿一 法性寺ほふしやうじ 東福寺門前 法性寺
廿二 成興寺じやうこうじ 東九条 城興寺
廿三 東寺とうじ 食堂 東寺
廿四 長圓寺ちやうゑんじ 松原通大宮西 長円寺
廿五 一音寺いちおんじ 西洞院天使の西隣 一音寺[4]
※ 平成2年(1990)以前に現在地へ移転
廿六 正運寺せううんじ 蛸薬師通大宮西 正運寺
廿七 觀音寺くわんおんじ 下立賣七本松北 観音寺
廿八 西蓮寺さいれんじ 同 藍や之ずし角 西蓮寺
廿九 長宝寺ちやうほうじ 北野大将軍の町 廃寺[5] /観音像は成願寺[6]
※ 明治6年(1873)、神仏分離で三之保社として北野天満宮へ遷宮
三十 地藏ぢざう 同 紙屋川の西 地蔵院
三十一 觀音寺くわんおんじ 北野東向の観音 観音寺
三十二 天王寺てんわうじ 同 紅梅殿の前 廃寺[7] /如意輪観音像は廬山寺
※ 明治7年(1874)、廬山寺と合併
三十三 清和院せいわいん 七本松一条上ル 清和院/河崎観音[8]
[1]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「長金寺は誠心院の西向ひなり 一言堂といふ 本尊十一面観音は弘法の作」
[2]田中緑紅編の「京のおもかげ」(1931-1937年刊)の続篇下37に「成円寺に残る下御霊観音堂 (大宮蛸薬師成円寺)」の記録があり、 また成円寺の門前には「洛陽 三番正観音 六番地蔵尊 成圓寺」と書かれた石標があります。
[3]七観音院は2018年に法人番号が更新されていますが、門や堂宇がすべて取り壊され、現在は更地になっています。
[4]昭和26年(1951)頃の京都を示した「京都市明細図」を見ると、五条天満宮(天使社)の西隣、下京区天神前町343に「一音寺」があり、 現在は跡地に平成3年(1991)8月完成のマンションが建っています。
伏見区深草谷口町にある真言宗醍醐派の一音寺が、天使山の山号をもつことから、移転先の同一寺院とみています。
[5]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「長宝寺 大将軍の西にあり 本尊十一面観音は菅神の御作にて 」
[6]成願寺の長寳堂には「洛陽廿九番 長寳寺」の扁額が掲げられています。 なお、右京区花園艮北町5の成願寺(北野天満宮七保のひとつ七之保社)とは別の寺院です。
[7]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「金山天王寺は北野社東の門通にあり 天台宗にして本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり」
[8]現在は九州国立博物館に寄託されています。

更新日:2022/02/04