八幡宮十五ヶ所 京都名所案内図会 明治20年(1887)
京都名所案内図会 現在
一番 京極寺 御霊辻子 京極寺鎮守 京極八幡(赤八幡)[1]」廃社
※ 大正年間(1912-1926)、京極寺のみ上京区上御霊竪町から現在地へ移転
二番 上御霊 ノ内 上御霊神社末社 花御所八幡宮[2]
三番 五所八幡 北山 「五所八幡宮[3]」廃社
※ 明治20年(1887)、熊野神社(宮津市)と合併
四番 下御霊 寺町 下御霊神社末社 八幡社
五番 粟田神明 ノ内 粟田神社末社 大神宮(八幡神)
六番 八坂神社 ノ内 八坂神社末社 八幡社
七番 愛宕寺 ノ内 愛宕念仏寺 「八幡宮[4]」廃社?
※ 大正11年(1922)、東山区弓矢町から現在地へ移転
八番 報國寺 ノ内 「法国寺[5]」廃寺
※ 明治40年(1907)、歓喜光寺と合併
九番 若宮八幡 若宮八幡宮社
十番 武日寺 五條橋西詰 廃寺?[6]
十一番 朝日神明 ノ内 朝日神明宮末社 八幡春日社」廃社
十二番 五條天神 ノ内 五条天神社末社 八幡宮[7]」廃社
十三番 観音寺 醒ヶ井仏光寺北 観音寺
十四番 高松神明 ノ内 高松神明神社
十五番 御所八幡 五條坂[8] 御所八幡宮
※ 太平洋戦争中、御池通の拡幅に伴い中京区御所八幡町から現在地へ移転
以上中頃定ムル所也
[1]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「京極八幡宮 上御霊門前西二町にあり 古へは京極三条にありて寺を京極寺と号し 」
[2]花御所八幡宮は、室町幕府三代将軍足利義満が造営した花の御所(=室町殿・室町第)に勧請されたものです。 現在、上御霊神社入口に「花御所八幡宮」の石標がありますが、本来の位置は上京区御所八幡町(烏丸通上立売下ル)と考えられています。
[3]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「五所(ごしょ)八幡宮 同街(=鞍馬口通)山口間臥庵(かんぐわあん)の東にあり ・・・ 近年足利家の花の御所に効(なそらへ)て御所八幡とも称す 社内に禅刹あり 絶海禅師の開基にして東寓寺といふ」
京都坊目誌(上京第二學區之部)」P21の五所八幡宮ノ址の項に以下の記述があります。 「維新後。荒廢に及ぶ。其後上御社内に遷す。明治二十年十二月丹後國加佐郡由良村熊野神社に合併し。由良神社と改稱す。」 現在、宮津市由良宮本にある由良神社には『花御所八幡・由良神社』の石標が立っています。
[4]都名所図会(巻之二)」では愛宕寺(等覚山念仏寺)の境内に「八幡宮」が描かれていますが、嵯峨鳥居本へ移転後の現在は確認できていません。
[5]所在地と寺院名の類似から推定しました。 「拾遺都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「法国寺 五条大谷口にあり 時宗」
[6]山州名跡志(巻之二十二)」の八幡宮の項に以下の記述があります。 「在五條橋西爪 門 北向 鳥居 同木柱」 「観音堂 在宮北東面 ・・・ 當宮ヲ号武日(タケヒノ)供僧ノ坊ヲ武日(ブニチ)寺威光鬘(サクハウマン)院ト称ス 又号首途(カドデノ)八幡
また「都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「松豊八幡宮は五條橋西爪にあり 首途(かといで)八幡とも称す」
松豊八幡宮は明治2年(1869)に廃社されたようで、武日寺も同時期の廃寺と推測されます。
[7]都名所図会(巻之二)」では五條天神宮の境内に「八まん」が描かれていますが、現在は存在しません。
[8]他の古文書情報から「等持寺八幡」であることは間違いないと思いますが、所在地の「五条坂」は現在の感覚からするとやや離れています。

更新日:2014/08/07