地蔵二十四ヶ寺 京都名所案内図会 明治20年(1887)
京都名所案内図会 現在
一番 壬生寺 定朝ノ作 壬生寺/縄目地蔵[1]
二番 万年寺 同 同寺ノ東ニアリ 新徳寺[2]/屋葺地蔵(屋根葺地蔵)
三番 光林寺 惠心ノ作水上地藏
綾小路大宮西ニアリ
光林寺/水上地蔵
四番 勧学院 春日ノ作 夢合地藏 更雀寺[3]/桶取地蔵
※ 昭和52年(1977)、中京区錦大宮町から現在地へ移転
五番 休務寺 太子ノ作夢違地藏
錦大宮ノ西ニアリ
休務寺
六番 善想寺 定朝子安地藏
六角通大宮ノ西ニアリ
善想寺/泥足地蔵(汗出し地蔵)
七番 祐正寺 慈覚妾取 祐正寺/妻取地蔵(娶妻結地蔵)
八番 地藏院 太子田作リ 地蔵院/鍬形(くわがた)地蔵(昆陽野(こやの)地蔵)
九番 淨福寺 弘法 浄福寺/引接地蔵(引摂地蔵)
十番 長栄寺 役行者四十一[4]の地藏
大宮一條上ル
長栄寺
十一番 石像寺 弘法 石像寺/釘抜地蔵
十二番 地藏院 行基ノ十二坊中 「上品蓮台寺子院 地蔵院[5]」廃寺 /歯形地蔵
十三番 上品蓮 太子作 上品蓮台寺/延命地蔵
十四番 興聖寺 篁ノ作 天神ノ西 興聖寺/勝軍地蔵
十五番 西林寺 定朝 木槿地藏 西林寺/木槿(もくげ)地蔵
十六番 三福寺 同 夢地藏 三福寺/夢見地蔵
十七番 聞名寺 聞名寺/明眼(あけめ)地蔵
十八番 矢田寺 万米上人 矢田寺/代受苦地蔵
十九番 清帯寺 行基 腹帯 「清帯寺[6]」廃寺 /腹帯地蔵は西光寺
※ 明治6年(1873)、西光寺と合併
廿番 了蓮寺 定朝 枕返地藏[7] 了蓮寺
※ 明治34年(1901)、現在地へ移転
廿一番 十住心院 弘法 染殿 染殿院/染殿地蔵
廿二番 仲源寺 定朝 めやみ 仲源寺/目疾(めやみ)地蔵
廿三番 十輪院 運慶ノ作 「六波羅蜜寺塔頭 十輪院[8]」廃寺 /夢見地蔵は六波羅蜜寺
廿四番 六波羅密寺 弘法桂掛地堂[9]
本堂ノ傍ニアリ
六波羅蜜寺/鬘掛(かつらかけ)地蔵
以上中頃定めメ玉フ所也
[1]旧本尊の縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しましたが、令和2年(2020)に復元されました。 現在の本尊は昭和42年(1967)に唐招提寺から移された延命地蔵菩薩立像です。
[2]元文4年(1739)、北隣の万年寺など四寺を併合して新徳寺が建立され、万年寺の地蔵だった屋葺地蔵は新徳寺に引き継がれました。
[3]勧学院が改名して更雀寺となりました。 中京区西ノ京勧学院町は、藤原冬嗣によって創建された勧学院(藤原氏の大学別曹)の跡地で、錦大宮町へ移転する前の勧学院(寺院)があった場所と言われています。
[4]「辻」の誤記と思われますが、原文のまま「十一」としています。
[5]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「レンダイジ」の近くに千本通に面して「ジゾウイン」があります。
[6]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[7]宝永8年(1711)刊の「善悪因果集」の著者である蓮盛について以下のような記録があり、この説話から「枕返し」の名が付いたと推測しています。 「ある法師、同郷の人の助力によって、京都了蓮寺に勤めるが、次第に昔の苦しさを忘れ、ついに、東山辺の遊女に通うようになる。 了蓮寺の地蔵は法師の夢に現れて『出で去るべし』というが、そのまま日を送る。 地蔵はもう一度現れ、彼の右目を失明させる。 法師北野辺に隠れ住んで懺悔し、勇猛の念仏者となる」
[8]山州名跡志(巻之三)」の普陀洛山六波羅蜜寺の項に以下の記述があります。 「十輪院 在開山堂北 本尊 地蔵菩薩 坐像二尺五寸許」
[9]「藏」の誤記と思われますが、原文のまま「堂」としています。

更新日:2024/05/17