[1]神廿五箇所 京都名所案内図会 明治20年(1887)
京都名所案内図会 現在
一番 菅大臣社 松原 菅大臣神社
二番 北管[1]大臣 同北 北菅大臣神社
三番 荒神社 ノ内 観音寺[2]
四番 東寺とうじ 東寺
五番 吉祥院 吉祥院天満宮
六番 行衛天神 西七條松尾旅所 綱敷行衛天満宮
※ 昭和9年(1934)、行衛天満宮が綱敷天満宮と合併
七番 綱敷天神
八番 一夜天神 壬生ノ南 壬生寺 一夜天神堂
九番 朝日天神 廃社?[3]
十番 天道天神 仏光寺猪熊角 天道神社末社 天道天満宮
十一番 頼政神明 ノ内 神明神社末社 天神宮[4]
十二番 八坂神社 ノ内 八坂神社末社 天神社
十三番 下御霊社 ノ内 下御霊神社末社 天満宮社
十四番 安禪寺天神 京極石薬師 「安禅寺[5]」廃寺
※ 明治9年(1876)、因幡堂薬王院と合併
十五番 [1]家社 「菅家社[6]」廃社?
十六番 長福寺天神 京極筋違橋 「長福寺[7]」廃寺
※ 明治維新の頃
十七番 上御霊社 ノ内 御霊神社末社 天満宮社
十八番 水火神社 水火天満宮
※ 昭和27年(1952)、上天神町から現在地へ移転
十九番 清和院 清和院 天神堂
二十番 神輿岡社 御輿岡神社
廿一番 文子社 北野天満宮末社 文子天満宮[8]
※ 明治6年(1873)、北野天満宮境内へ遷宮
廿二番 安楽寺天神 西京 北野天満宮末社 一之保神社(時鳥天神)[9]
※ 明治6年(1873)、北野天満宮境内へ遷宮
廿三番 経王堂 「北野経王堂願成就寺[10]」廃寺
※ 明治3年(1870)
廿四番 朝日観音 ノ内 東向観音寺[11]
廿五番 北野神社 北野天満宮
[1]「菅」の誤記と思われますが、原文のまま「管」としています。
[2]現在、荒神口の護浄院に祀られている清荒神は、慶長5年(1600)まで観音寺に安置されていました。
[3]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「一夜ノ天神」の東に「朝日天神」がありますが、現存確認できていません。
[4]山州名跡志(巻之二十二)」の中に以下の記述があります。 「神明宮 在綾小路高倉西北方 ・・・ 攝社 石神社 稲荷社 天神宮 辨天社 荒神社 在本宮東北至南」 現在の神明神社の末社は5社でいずれも祭神は不明ですが、上記の5社と考えられます。
また第二次大戦後、近くの豊園小学校(現・洛央小学校)内に祀られていた文子天満宮が合祀されていますが、これは本殿の天照皇大神との合祀のようです。
[5]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「安禅寺 同街(=京極通)石薬師御門の南にあり 真言宗」
[6]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「アンセンシ」の西に「タカツシ」邸があります。 高辻家は菅原氏嫡流で、敷地内に道真を祀った天神があり、高辻家とともに天神も移っていったと推測しています。
[7]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「威王山長福寺 同街(=京極通)条違橋(すぢかひばし)の北にあり 宗旨四宗兼学」
[8]上京区天神通上ノ下立売上ル北町の旧社地は文子天満宮御旅所として残っています。 また、下京区間之町通花屋町下ル天神町にある同名の文子天満宮は、北野天満宮の前身神社と言われています。
[9]廃仏毀釈によって神宮寺の安楽寺が廃寺となり、安楽寺天満宮は「一之保社」として北野天満宮内へ遷座されました。 その後、旧跡地には再び安楽寺天満宮(上京区北町)が創始されています。
[10]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「願成就寺は影向松(えうがうのまつ)の坤(ひつじさる)(=南西)にあり 本尊は釈迦多宝仏の二尊なり ・・・ 故に経王堂ともいふ」
現在、経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に観音堂として移築され、仏像なども大報恩寺霊宝殿に保管されています。
[11]東向観音寺の本尊十一面観世音菩薩像は、菅原道真の自作と伝えられており、天神本地仏として信仰を集めました。

更新日:2016/04/02