その他 京都名所案内図会 明治20年(1887)

4.廿壱箇寺、六勝寺、五山、尼寺五山、石清水禅家五箇寺、律院五箇寺、浄土四本寺、西山派

京都名所案内図会 現在
廿壱箇寺
廣隆寺 太秦 広隆寺
上出雲寺 北京 廃寺(明治初年) ※ 上御霊神社の神宮寺
下出雲寺 同上 廃寺(応仁の乱で焼失) ※ 下御霊神社の神宮寺
常住寺 洛西 浄住寺
珎皇寺 六道 六道珍皇寺
清水寺 東山 清水寺
法觀寺 八坂 法観寺
聖神寺 不詳 「聖神寺(しょうじんじ)」廃寺(明治初年) ※ 上賀茂神社の神宮寺
東寺 九條 東寺
西寺 九條西 廃寺[1](中世) ※ 所在:南区唐橋
延暦寺 比叡山 延暦寺
法性寺 九條川原 法性寺
貞觀寺 伏見 廃寺(中世) ※ 所在:伏見区深草
極樂寺 深草 廃寺(中世) ※ 所在:伏見区深草
元慶寺 華山 元慶寺
仁和寺 大内山 仁和寺
祇園 東山 「観慶寺(かんぎょうじ)」廃寺(明治初年) ※ 八坂神社の神宮寺
法成寺 近衛京極 廃寺(鎌倉末期) ※ 所在:上京区荒神口通寺町東入
鴨神宮寺 上賀茂 知恩寺[2]
頂法寺 六角堂 頂法寺
佐井寺 西院[3] 「佐比寺」廃寺 ※ 所在:南区吉祥院あるいは上鳥羽塔ノ森
以上ハ国史ニ載ル所ニシテ古ヘ此寺ニテ恒例ノ御讀經ヲ行ル[4]
六勝寺 いずれも鴨川東岸の白河(現・左京区岡崎)に建立、応仁・文明の乱(1467〜77)の兵火で廃絶
法勝寺 廃寺 ※ 白河天皇御願
尊勝寺 廃寺 ※ 堀河天皇御願
円勝寺 廃寺 ※ 待賢門院(鳥羽天皇中宮)御願
最勝寺 廃寺 ※ 鳥羽天皇御願
成勝寺 成勝寺[5] ※ 崇徳天皇御願
※ 元和7年(1621)に江戸へ、昭和3年(1928)に現在地へ移転
延勝寺 廃寺 ※ 近衛天皇御願、久安5年(1149)落慶
五山
天龍寺 霊亀山 天龍寺
萬年山相国寺 相国寺
東山建仁寺 建仁寺
惠日山東福寺 東福寺
京城山万壽寺 万寿寺
瑞龍山南禪寺は五山の上とす 南禅寺
以上中華に比して云を定したる
尼寺五山
通玄寺 北京 廃寺 (所在:三条東洞院辺り)
※ 応仁元年(1467)の乱で焼失し曇華院に合併[6]
景愛寺 松木嶋[7] 廃寺 (所在:上京区西五辻東町)
※ 応仁の乱前に焼失、法脈は宝鏡寺大聖寺が継承
檀林寺 嵯峨 廃寺[8](室町時代)
惠林寺 廃寺
護念寺 東山 護念寺
以上尼寺五山なり
石清水禪家五箇寺 禅家五ヶ寺組
神應寺 神應寺
常德寺 廃寺?
全昌寺 廃寺?
慶春菴 廃寺? ※ 宝暦9年(1759)類焼
巣林菴 巣林寺
※ 明治維新後、現在地へ移転
同律院五箇寺 律家五ヶ寺組
大乗院 廃寺[9](明治初年)
金剛院 「金剛律寺」廃寺?
法恩寺 法園寺
西寺 善法律寺
慈光院 「寿徳院[10]」廃寺 ※ 所在:八幡市八幡山路71
浄土四本寺
華頂山大谷寺 知恩院
紫雲山光明寺 金戒光明寺
長德山知恩寺 知恩寺
清淨華院 清浄華院
同西山派
報国山念仏三昧院 粟生 光明寺
誓願寺 誓願寺
聖衆来迎山禪林寺 禅林寺
円福寺 円福寺
※ 明治16年(1883)、現在地へ移転
[1]南区唐橋平垣町に浄土宗西山禅林寺派の西寺が存在しますが、この寺は明治27年(1894)まで西方寺と称しており、平安時代の官寺である西寺との直接的関係は確認されていません。
[2]知恩寺の前身である加茂神宮寺は現在の相国寺付近にありました。 相国寺創建の際に一条の北油小路へ移転、その後も移転を繰り返し、寛文2年(1662)に現在地へ移りました。
都名所図会(巻之三)」の長徳山知恩寺百万遍の項に以下の記述があります。 「古は加茂の神宮寺にして慈覚大師の艸創なり」
[3]「西院」は「さい」と読みます。 音の類似から西院に比定されたと思われますが、現在は西院よりも南の地域にあったと推定されています。
[4]拾芥抄(下巻)」の「諸寺部第九」に「廿一寺 公家恒例被行御讀經」と記されています。
[5]京都坊目誌(上京第廿七學區(岡崎町)之部)」は応仁の乱で廃寺になったと記していますが、保元の乱で敗れ流罪の末に怨霊となったと伝えられる崇徳上皇の御願寺という特異な性格のため、年を経ても繰り返し再興されたのでしょう。
[6]拾遺都名所図会(巻之一)」に以下の記述があります。 「瑞雲山通玄寺曇華院(ずゐうんさんつうげんじどんげゐん) 東洞院三條にあり 地名を初音の杜(はつねのもり)と称す」
合併後の曇華院は元治元年(1864)の大火で焼失し、明治9年(1876)に現在地で再興されました。
[7]荒川玲子氏の「景愛寺の沿革−尼五山研究の一齣−」によれば、無外如大はまず洛北の松木島に資寿院を営み、弘安8(1285)年に五辻大宮に景愛寺を創建したとされています。
[8]昭和39年(1964)、檀林皇后の遺徳を偲んで右京区嵯峨鳥居本小坂町に檀林寺が再興されていますが、尼五山だった檀林寺とは直接関係がありません。
[9]「山城綴喜郡誌(1908)」P267に以下の記述があります。 「神宮寺 又大乗院と號す、八幡律宗五ケ寺の一にして、其位置頓宮の北、字科手に在りしも明治初年兵火の爲め灰燼と爲れり。」
[10]「京都府の地名」P165の八幡八郷の項に「律家五ヶ寺組を形成する善法律寺・法園寺・金剛寺・大乗院・寿徳院の・・・」とあり、慈光院=寿徳院と推測しています。

更新日:2016/11/06