元三大師順拝十八ヶ所 都すゞめ案内者 正徳5年(1715)
都すゞめ案内者 現在
一番 ろさんじ 寺町通さわら木丁上ル
三丁め
廬山寺
二〻 遣迎院 右同所南となり 遣迎院
※ 昭和30年(1955)、現在地へ移転
三〻 しんによたう 本だうのうしろ 真如堂
四〻 そんしやう院 三条あわたぐち
かうしんたうのをく
尊勝院
五〻 かんじんゐん ぎをん本社東ノわき 八坂神社[1] 「元三大師堂[2]」廃絶
六〻 やうげんゐん 大仏卅三間堂ノむかひ 養源院
七〻 武日寺 五てう西はしつめ
八まんのうち
「武日寺[3]」廃寺?
八〻 かんだいじ ふつかうししんまち西へ入
みなみかわ
菅大臣神社 「大師堂[4]」廃絶
九〻 りうくはんじ あやのかうし東洞院東へ入
しんめいのうち
「立願寺[5]」廃寺 神明神社は存続
※ 明治初年の神仏分離
十〻 ゑんめいゐん 高倉三条上ルほりばた 「延命院[6]」廃寺?
十一〻 とうじ寺 おいけ高くらひがしへ入
八まんノうち
「等持寺[7]」廃寺 御所八幡宮は存続
※応仁の乱後、等持院と合併
十二〻 大ふくじ ふや町二でう上ル丁 大福寺
十三〻 三ぼうじ いのくま下立うり上ル丁
くわうしんノうち
「三宝寺[8]」廃寺
※ 明治17年(1884)、毘沙門堂と合併
十四〻 わくはうゐん でみづ通千本ひかしヘ入
しんめいノうち
「和光院[9]」廃寺 桜宮神社は存続
十五〻 くはんをんじ 七本松通出水行あたり 観音寺
十六〻 天わうじ きたのおまへ通[10]
こうはいとのやしろの所
「天王寺[11]」廃寺
※ 明治7年(1874)、廬山寺と合併
十七〻 上ぜんじ 千本通右同所上ル丁 上善寺[12]
十八〻 はんじゆゐん きたのおまへ通[10]千本
ひがしへ入二丁め
般舟院
道のり三り余
[1]明治時代に神仏分離が実施されるまで、八坂神社は祇園感神院または祇園社と称していました。
[2]花洛名勝図会(東山之部一)」の祇園社の項に以下の記述があります。 「元三大師堂 薬師堂の北にあり 本尊大師の像二尺余」
[3]山州名跡志(巻之二十二)」の八幡宮の項に以下の記述があります。 「在五條橋西爪 門 北向 鳥居 同木柱」 「観音堂 在宮北東面 ・・・ 當宮ヲ号武日(タケヒノ)供僧ノ坊ヲ武日(ブニチ)寺威光鬘(サクハウマン)院ト称ス 又号首途(カドデノ)八幡
また「都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「松豊八幡宮は五條橋西爪にあり 首途(かといで)八幡とも称す」
松豊八幡宮は明治2年(1869)に廃社されたようで、武日寺も同時期の廃寺と推測されます。
[4]都名所図会(巻之二)」の菅大臣社の項に以下の記述があります。 「大師堂 元三大師自作の像を安置す」
[5]護国山立願寺円光院という天台宗の寺で、「天明新増/京羽二重大全(巻之五)」の中に以下の記述があります。 「神明宮 在綾小路東洞院東北方カハニ 社僧天台宗 円光院」
[6]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「不動堂 姉小路東洞院の東にあり 延命院と号す」 姉小路通の一筋南が三条通、東洞院通の一筋東が高倉通です。
[7]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「御所八幡社は八幡町 一名御所通 高倉の西にあり 足利尊氏公康永年中に勧請せり 号を鳳凰山等持寺といふ」
[8]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「稲荷荒神社 猪熊通出水の南にあり ・・・ 今天台宗の僧住して三宝寺と号し 山科毘沙門堂に属す」
[9]「天明新増/京羽二重大全(巻之五)」の中に以下の記述があります。 「神明宮 在出水通千本東南方カハニ一名桜宮云 社僧天台宗 和光院」
また、宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、出水通千本東入の南側に「和光院」があります。
[10]現在の御前通ではなく、旧・須磨町通、現・上七軒通+今出川通(七本松通以東)を指しています。
[11]都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「金山天王寺は北野社東の門通にあり 天台宗にして本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり」
[12]六地蔵めぐりで有名な北区上善寺門前町の上善寺は、文禄3年(1594)にこの地から移転したもので、移転後の跡地に元上善寺として再興されたのが本寺です。

更新日:2015/09/03