洛陽地藏二十四ヶ寺廻 | 都すゞめ案内者 正徳5年(1715) |
都すゞめ案内者 | 現在 | ||
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一番 | 壬生寺 | でうちやう作なわめの地藏 みぶのほんだう |
壬生寺/縄目地蔵[1] |
二〻 | 万年寺 | でうちやうのさく 同所ひがしの門上ル所 |
新徳寺[2]/屋葺地蔵(屋根葺地蔵) |
三〻 | 光林寺 | ゑしんさく水の上の地藏 あやのかうじ大宮西へ入丁 |
光林寺/水上地蔵 |
四〻 | 勧学院 | かすがさくゆめ合のぢざう 四でう通すゝめのもり |
更雀寺[3]/桶取地蔵
※ 昭和52年(1977)、中京区錦大宮町から現在地へ移転 |
五〻 | 休務寺 | 太子作ゆめちがいの地藏 にしき大みやにしへ入丁 |
休務寺 |
六〻 | 善想寺 | でうちやう作こやすのちざう 六かく大みやにしへ入丁 |
善想寺/泥足地蔵(汗出し地蔵) |
七〻 | 祐正寺 | じかく作つまとりぢざう 下立うり千本より二丁にし |
祐正寺/妻取地蔵(娶妻結地蔵) |
八〻 | 地藏院 | 太子作田つくりのちざう かい川万日てら[4] |
地蔵院/鍬形(くわがた)地蔵(昆陽野(こやの)地蔵) |
九〻 | 淨福寺 | こうぼう大しのさく 一てう通千本より二丁ひがし |
浄福寺/引接地蔵(引摂地蔵) |
十〻 | 長栄寺 | ゑんの行者作四辻の地藏 大宮通一条二丁上ルあわ殿丁 |
長栄寺 |
十一〻 | 石像寺 | こうぼう大しのさく 千本五辻二丁上ルひがしがは |
石像寺/釘抜地蔵 |
十二〻 | 地藏院 | ぎやうぎのさく 千本の寺中はしの坊 |
「上品蓮台寺子院 地蔵院(橋の坊)[5]」廃寺 /歯形地蔵 |
十三〻 | 上品蓮臺寺 | たいしのさく 千ほんのほうじやう |
上品蓮台寺/延命地蔵 |
十四〻 | 興聖寺 | たかむらのさく 天神のずし |
興聖寺/勝軍地蔵 |
十五〻 | 西林寺 | 役行者作むくけのぢざう 右同ずし天神のまへ東へ行 |
西林寺/木槿(もくげ)地蔵 |
十六〻 | 三福寺 | でうちやう作ゆめみの地藏 東川原引やしき新地 |
三福寺/夢見地蔵 |
十七〻 | 聞名寺 | 右同さく 東川原引やしき新地 |
聞名寺/明眼(あけめ)地蔵 |
十八〻 | 矢田寺 | 万まい上人のさく 寺町三でう上ル丁 |
矢田寺/代受苦地蔵 |
十九〻 | 清帯寺 | ぎやうぎ作はらをびぢざう せいぐわんじのすし |
廃寺[6] /腹帯地蔵は西光寺へ
※ 明治6年(1873)、西光寺と合併 |
廿〻 | 了蓮寺 | でうちやう作まくらがへし地藏[7] 寺町通りにしき上ル丁 |
了蓮寺
※ 明治34年(1901)、現在地へ移転 |
廿一〻 | 十住心院 | こうぼう作そめどの地藏 四でうおたびきたかわ |
染殿院/染殿地蔵 |
廿二〻 | 仲源寺 | でうちやう作めやみの地藏 けんにんじ町四でうのかと |
仲源寺/目疾(めやみ)地蔵 |
廿三〻 | 十輪院 | うんけいたんけい両さく 六はらみつ寺のうち |
「六波羅蜜寺塔頭 十輪院[8]」廃寺 /夢見地蔵は六波羅蜜寺へ |
廿四〻 | 六波羅蜜寺 | こうぼう大し作かつらかけの ちざう本堂ノわき道 |
六波羅蜜寺/鬘掛(かつらかけ)地蔵 |
[1] | 旧本尊の縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しましたが、令和2年(2020)に復元されました。 現在の本尊は昭和42年(1967)に唐招提寺から移された延命地蔵菩薩立像です。 |
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[2] | 元文4年(1739)、北隣の万年寺など四寺を併合して新徳寺が建立され、万年寺の地蔵だった屋葺地蔵は新徳寺に引き継がれました。 |
[3] | 勧学院が改名して更雀寺となりました。 中京区西ノ京勧学院町は、藤原冬嗣によって創建された勧学院(藤原氏の大学別曹)の跡地で、錦大宮町へ移転する前の勧学院(寺院)があった場所と言われています。 |
[4] | 元禄9年(1696)の「京大絵図」を見ると、現在の地蔵院(椿寺)の位置に「万日寺」があり、当時はこの名称で呼ばれていたことが確認できます。 |
[5] | 宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「レンダイジ」の近くに千本通に面して「ジゾウイン」があります。
また、元禄6年(1693)頃の洛中を描いた「洛中絵図」を見ると、「蓮臺寺」十二坊のひとつとして「橋ノ坊」が描かれています。 |
[6] | 「都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。
「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。 |
[7] | 宝永8年(1711)刊の「善悪因果集」の著者である蓮盛について以下のような記録❐があり、この説話から「枕返し」の名が付いたと推測しています。 「ある法師、同郷の人の助力によって、京都了蓮寺に勤めるが、次第に昔の苦しさを忘れ、ついに、東山辺の遊女に通うようになる。 了蓮寺の地蔵は法師の夢に現れて『出で去るべし』というが、そのまま日を送る。 地蔵はもう一度現れ、彼の右目を失明させる。 法師北野辺に隠れ住んで懺悔し、勇猛の念仏者となる」 |
[8] | 「山州名跡志(巻之三)」の普陀洛山六波羅蜜寺の項に以下の記述があります。 「十輪院 在二開山堂北一 本尊 地蔵菩薩 坐像二尺五寸許」 |
更新日:2024/05/17