その他 都すゞめ案内者 正徳5年(1715)

2.名地蔵、名不動、名釈迦

都すゞめ案内者 現在
名地蔵めいちざう
將軍地藏しやうぐんちさう あたご山 白雲寺はくうんじ 「白雲寺[1]」廃寺 /勝軍地蔵は金蔵寺
※ 明治初年の神仏分離
勝軍地藏しやうぐんぢさう しら川村 山上 /勝軍地蔵は禅法寺[2]
やみの地藏 ぎをん町 仲源寺ちうげんじ 仲源寺/目疾(めやみ)地蔵
腹帯はらをひの地藏 せいくわんしず[3] 清帯寺せいたいし 「清帯寺[4]」廃寺 /腹帯地蔵は西光寺
※ 明治6年(1873)、西光寺と合併
同ぢざう きた山 大はら 実光院
矢田地藏 寺町三条上 こんかうじ 矢田寺/矢田地蔵(代受苦地蔵)
不燒やけぬぢざう 山しろの國 こはたの里 能化院/やけん(不焼)地蔵
油かけ地藏 ふしみの里 西岸寺/油懸地蔵
むくけの地藏 上京柳原 西林寺 西林寺/木槿(もくげ)地蔵
おとごの地藏 六ちざうの内 ときは村 源光寺/常盤地蔵
ほうやけの地藏 あねがこうぢくるまや町 ★調査中
そめ殿ぢざう 寺町四条のつじ北かど 染殿院/染殿地蔵
かづらまき地藏 六はらみつ寺 六波羅蜜寺/鬘掛地蔵
ゆめちがへ地藏 むろ町にしき上 ★調査中[5]
くびきれ地藏 五でう下てらまち 蓮光寺/駒止地蔵(首切り地蔵)
水落ぢざう 田中百まんべん境内 西光寺[6]/水落地蔵
※ 明治32年(1899)、現在地へ移転
よけの地藏 東寺四つつか 矢取地蔵
ゑんめいぢざう みぶ寺ぢざうゐん 壬生寺/延命地蔵(縄目地蔵)は昭和37年(1962)焼失[7]
油かけ地藏 さがあんどのはし西 油掛地蔵[8]
子やすちざう 下寺町高辻道場 庄厳寺 荘厳寺[9]
土筑ぢざう 五でう 本がく寺 本覚寺/泥付地蔵
名不動めいふとう
ふどう尊 いわや山 きんぶ寺 志明院(金峯寺)/岩屋不動
とうじ 東寺 西院不動堂(御影堂南面)/不動明王
石ふどう きた山 ろくをん寺 金閣寺 不動堂/石(いわ)不動
天神作同 今出川寺町上三丁め 長福寺 「長福寺[10]」廃寺
※ 明治維新の際
智證大師同 七条油小路 ふどう堂 不動堂明王院
同作毛不動 きた山 きんかく寺 金閣寺 不動堂/作毛不動
牛皮不動 出水通千本西へ入 ふくしやう寺 福勝寺/牛皮不動
いしふどう 松原ふや町かど みやうわう院 明王院不動寺/松原不動
大し作同 六かくだう ふどうゐん 頂法寺(六角堂)寺家 不動院[11]」廃寺 /石不動は六角堂へ[12]
北むき不動 たけだ ふとうゐん 不動院/北向不動
興教大師作 西八条 大通寺 児水不動明王[13]
名釋迦めいしやか
しやくせんだん尊像そんそう 嵯峨さかせいりう寺 清凉寺/栴檀(せんだん)釈迦瑞像(生身釈迦)
立像りうさうのしやか 松原ほり川 本こく 本圀寺/立像釈迦像
※ 昭和46年(1971)、現在地へ移転
しやかの像 東中山 ぜんしやう 善正寺
龍宮城釋迦りうぐうじやうのしやか 寺町今出川下 本善寺 本禅寺 釈迦堂/竜宮城釈迦
丈六像 せんゆじ かいくわう寺 戒光寺/ 身代わり丈六釈迦如来
[1]都名所図会(巻之四)」の中に以下の記述があります。 「愛宕山の社は王城の乾にして朝日嶽白雲寺と號(なづく) ・・・ 本地は将軍地蔵を垂跡となし 帝都の守護神として火災を永く退給ふ也」
愛宕神社は現在も存続しています。
[2]左京区一乗寺松原町の瓜生山頂にあった勝軍地蔵は、宝暦12年(1762)に左京区北白川山ノ元町(バプテスト病院西の山上)へ移され、さらに近年、左京区北白川上終町の禅法寺境内へ移されました。
[3]「せいくわんしずし」の最後の「し」の欠落と思われますが、原文通り表記します。
[4]都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[5]「京都市の地名」P792の山伏山町の項に以下の記述があります。 「近世、錦小路室町角に小庵があり、円空地蔵(一名団(ゆめあわせ)地蔵)が安置されていた。」
名称は異なるものの位置が一致しており、「夢違地蔵」=「円空地蔵」の可能性があります。
[6]荒廃していた西光寺が明治32年(1899)に愛知県津島市へ移転し再興された際、水落地蔵(立像)も津島市へ遷されました。
現在では、明治34年(1901)に知恩寺境内へ移転してきた了蓮寺の地蔵(座像)が水落地蔵と呼ばれています。
[7]現在の本尊延命地蔵菩薩立像は、昭和42年(1967)に唐招提寺から移されたものです。
[8]高さ1.7mの花崗岩でつくられた石仏で、地蔵と呼ばれていますが、実は定印をむすんだ厚肉彫りの阿弥陀如来坐像です。
[9]天正19年(1591)まで高辻堀川の東にあったため「高辻道場」とも呼ばれていました。 天明8年(1788)、天保11年(1840)、安政5年(1858)の大火で類焼し、明治25年(1892)に再建されました。
[10]拾遺都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「威王山長福寺 同街(=京極通)条違橋(すぢかひばし)の北にあり 宗旨四宗兼学 ・・・ 本尊不動尊」
[11]都名所図会(巻之一)」では六角堂頂法寺の本堂南西に「不動院」と「石不動」、その北隣に「大聖院不動明王」が描かれています。 「京都市の地名」P785の頂法寺の項に「多聞院・不動院・住心院・愛染院などの寺家があった。」と記されていますが、いずれも現存しません。
[12]現在の頂法寺境内には石不動と不動明王立像があり、このうち石不動が該当の像と考えています。
[13]児水(ちごすい)不動明王は、尼寺と呼ばれていた大通寺(遍照心院)の門前にありましたが、明治45年(1912)に大通寺だけが南区西九条比永城町へ移転しました。 児水不動明王の脇からは「児(ちご)の水」とも「尼寺の水」とも呼ばれる清水が湧き出しています。

更新日:2019/06/10