廿一寺 拾芥抄 慶長年間(1596-1615)
拾芥抄 現在
公家恒例被行脚讀經
廣隆寺 広隆寺
上出寺[1] 「上出雲寺[2]」廃寺
※ 明治初年
常住寺 浄住寺
珍皇寺 六道珍皇寺
清水寺 山城中納言坂上田村丸延暦十七造之千手 清水寺
八坂 號法觀寺淨藏加持塔 法観寺
聖神寺 「聖神寺[3]」廃寺
※ 明治初年
東寺 在九條高野末寺弘法大師 東寺
西寺 九條前少僧都慶俊 「西寺[4]」廃寺
※ 中世
延暦寺 延暦寺
法性寺 九條河原貞信公 法性寺
貞觀寺 「貞観寺[5]」廃寺
※ 中世
極樂寺 昭宣公阿弥陀 「極楽寺[6]」廃寺
※ 中世
元慶寺 元慶寺
仁和寺 仁和寺
下出雲 「下出雲寺[7]」廃寺
※ 応仁の乱で焼失
祇園 「観慶寺[8]」廃寺
※ 明治初年
法成寺 近衛北京極東御堂關白治暦元乙丑[9]十十八供養 「法成寺[10]」廃寺
※ 鎌倉末期
鴨神宮寺 知恩寺[11]
六角堂 六角北東洞院西六角面名頂法寺 六角堂
佐井寺 「佐比寺[12]」廃寺
[1]「上出寺」は「上出雲寺」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[2]上出雲寺は上御霊神社の神宮寺でした。
[3]聖神寺(しょうじんじ)は上賀茂神社の神宮寺でした。 「都名所図会(巻之六)」では上加茂社のみたらし川の西に「聖神寺」が描かれています。
[4]西寺は南区唐橋にあった寺院です。 現在、南区唐橋平垣町に浄土宗西山禅林寺派の西寺が存在しますが、この寺は明治27年(1894)まで西方寺と称しており、平安時代の官寺である西寺との直接的関係は確認されていません。
[5]貞観寺(じょうがんじ)は伏見区深草瓦町にあった寺院で、「拾遺都名所図会(巻之四)」の貞観寺旧地の項に以下の記述があります。 「今の瓦町の地なり 一説墨染寺の地貞観寺なりとぞ 三代實録曰貞観四年嘉祥寺の西院を以て貞観寺と号す云云」
[6]極楽寺は伏見区深草極楽寺町にあった寺院で、「都名所図会(巻之五)」の極楽寺の旧跡の項に以下の記述があります。 「極楽寺の旧跡は寶塔寺瑞光寺の境地也」
[7]下出雲寺は下御霊神社の神宮寺でした。
[8]観慶寺(かんぎょうじ)は八坂神社の神宮寺でした。
[9]治暦元年(1065)の干支は乙巳(きのとみ)です。「乙丑」は「乙巳」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[10]法成寺は上京区荒神口通寺町東入にあった寺院です。
[11]知恩寺の前身である加茂神宮寺は現在の相国寺付近にありました。 相国寺創建の際に一条の北油小路へ移転、その後も移転を繰り返し、寛文2年(1662)に現在地へ移りました。
都名所図会(巻之三)」の長徳山知恩寺百万遍の項に以下の記述があります。 「古は加茂の神宮寺にして慈覚大師の艸創なり」
[12]佐比寺は南区吉祥院あるいは上鳥羽塔ノ森にあった寺院です。

更新日:2014/08/10